3001.仁(4)人にして仁ならずんば | 論語ブログ

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仁(4)人にして仁ならずんば

 

子曰わく、人にして仁ならずんば、禮を如何にせん。

人にして仁ならずんば、楽を如何にせん。

   八佾第三 仮名論語241行目

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「人にあって仁の心がなくては、形式的な礼が何になろう。又人であって仁の心がなくては、整った音楽を奏(そう)してもなんになろう」

 

「人にして仁ならずんば」・・・人間の文化の表現として、最も重要な礼と楽ですが、その根底となるものは「仁」すなわち人間の愛情にあることを言っています。

「仁」は「論語」の主要なテーマです。なにしろ、「論語」500章の中に60章余りに出てきます。ここでは「人間らしい心」と訳せると思いますが、実は、「仁」についての決まった定義はありません。孔子は折にふれて「仁」を話題にしており、その都度違った言い方をしています。

つまり「仁」は人間の心の「核」のような物で、状況に応じていろいろな現われ方をします。孔子はそれを語っているのです。

「楽」という概念は、広くしては音楽一般ですが、おおむね礼の儀式を行う際に演奏される音楽を意識しますから、大きくくくれば、楽も礼の中に含まれますが、この場合のように、礼と楽とを二つの概念として併称することも、しばしばです。どちらも人間の文化の表現ですが、併称された場合は、「礼」は人間の秩序、敬意、厳粛さの表現であり、「楽」は人間の親和の表現であるとされています。

「礼記」には、「音楽は精神を、礼儀は行動を修める」とあります。礼と楽とは、表裏一体となっており、人間性の修養に不可欠のものとされてきました。

「禮」は形から、「楽」は情緒から、それぞれ人間を人間らしくするためのものとして、孔子は特に重視しました。彼が一生をかけたものでもありましたが、それすらも、仁を忘れては無意味だとしたのです。

不仁なる人物であっては、礼だの楽だのということは、はじめから問題にならないのです。

心のこもっていない、単に形式だけの礼を、孔子は嫌っています。そこで、こんな言葉が「論語」に出てきます。

子曰わく、先進の禮楽に於けるや、野人なり。後進の禮楽に於けるや、君子なり。

如しこれを用うれば、則ち吾は先進に従わん。

   先進第十一 仮名論語1411行目

   伊與田先生の解釈です。

先師が言われた。「周の初の先人達の礼楽に於いては、心は籠(こも)っているが形は粗野で野人のようであった。今の人の礼楽に於いては、形の上ではよく整って君子のようである。もし私がどちらかを選ぶとすると先人の礼楽に従おうと思う」。

この章は、古い弟子達と新しい弟子達を比べて、感想を語ったものです。後になるほどスマートになってきたのでしょう。何事も、当初は活力に満ちている代わりに、整っておらず、ぶつかりながら発展していく。そして、次第に洗練され整備されてきます。でも、反面それにつれて活力は次第に失われていくのです。

昔の人は礼楽については、まるで野人だった。今の人の礼楽は、まことに整っていて、いかにも紳士だ。どちらかといえば、私は昔の人のやり方に従いたい。

これは、おそらく今日の礼楽が表面の形式だけを整備していることに反省をうながしたもので、昔の人々の質朴粗野ではあっても、そこに心のこもっていたことを評価したのでしょう。

ただ、孔子はけっして表現される形を、おろそかにしてよいと言っているわけではないのです。そもそも形を無視した礼などはありません。礼は、心の中の思いが適切に形となって表現されるものだからです。

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

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