徳(15)君子の風は徳なりⅰ
季康子、政を孔子に問うて曰わく、如(も)し無道を殺して有道に就かば、何如。
孔子對(こた)えて曰わく、子、政を為すに、焉(なん)ぞ殺を用いん。
子、善を欲すれば、民善ならん。
君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之に風を上うれば、必ず偃(ふ)す。
顔淵第十二 仮名論語173頁4行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
季康子がまた政治の要道を尋ねた。「もし道にはずれた行をする者を殺して、善い行をする立派な人物を挙げ用いたらどうでしょうか」
先師は答えられた。「あなたが政事をなさるのに、どうして人を殺す必要がありましょうか。あなたが、道に叶った善い行をなさろうと思われるなら、人民は自然に善くなるでしょう。
君子(為政者)の徳は風で、小人(人民)の徳は草です。草に風をあてれば必ずなびきます」
*季康子:(?~前477)魯の大夫。季孫氏の7代目。名は肥、康は贈り名。父の季桓子の後を継いで大夫となる。孔子の門人の冉求・子貢・子路・樊遲らを任用し、また冉求の勧めで孔子を招いたりもした。
この章では、「君子の徳、小人の徳」とでてきます。
「季康子、政を孔子に問うて曰わく」・・・季康子は孔子に政治に関して質問しています。彼の質問は、論語の中でも4回出てきますが、この章もその一つです。
季康子は三桓と言われた季孫氏の7代目です。斉の国からの女楽80人にうつつを抜かし、三日間朝廷の政務を怠り、孔子が魯国を去るきっかけを作った季桓子の息子で魯国の大夫です。
季康子はこの顔淵第十二にも3章に出てきますが。論語の中では6回出てきます。また、季子として6回、季孫として2回、康子として2回出てきます。登場回数としては多い方ですね。
康子の時代に、子路や冉有などが季孫氏に仕えています。孔子一門との関係は密接でした。しかし、孔子の季孫氏への批判は厳しいものでした。
それは季孫氏に直接向けられる場合もありましたが、季孫氏に仕えている弟子に向けられることもありました。
「如し無道を殺して有道に就かば、何如」・・・もし見せしめの為も含めて無道な連中は皆殺しにするなど、きれいに始末してしまって、世の中の正しい規律を完成するというのは、どうだろうか。「孔子對えて曰わく、子、政を為すに、焉ぞ殺を用いん」・・・孔子はお答えしました。貴方は、為政者でありますならば、たとい無道な連中とはいえ、どうして殺すなどいたしましょうか。「子、善を欲すれば、民善ならん」・・・貴方が良き生き方をと願われますならば、人々もそうなります。「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり」・・・為政者の品位・身分は風のようなもの、民衆の品位・身分は草のようなものです。「草、之に風を上うれば、必ず偃す」・・・草に風が吹きますれば、草は必ず靡(なび)いて仆(たお)れます。
君子の徳は風なり、風が草をなびかせるように、君子がその徳によって人々をなびかせ教化することです。上に立つ人の行動は良くも悪くも影響が大きいもので、善行も指示するよりもまず自ら行う事で他の人もついてきてくれます。風を待つのも良いのですが自ら風を起こすことも出来るのです。
小人の徳は草なり、小人は素直な心によって、民は上に立つ人の行動に感化されて皆善になるのです。
上に立つ者が善を志すならば、人民はそれに同化される。草は風の吹く方向になびくのです。
孔子はここで彼の平素の主張である徳化思想を説いています。徳化思想は君主自身がまず徳を身に付けねばならないわけですし、大臣たる季康子にもそれを要求して、その実践を希望しています。厳しい要求ですね。
政治家が自ら正しいあり方をしていれば、民衆はそれを模範として従ってきて、厳しい命令で強制する必要はないのです。道徳による政治は、政治家の道義的な正しさを強く求め、その意味でまた君主のあり方をも強く規制するものでした。
孔子の教えの本体としては、位ある者、勢力ある者は名誉と尊敬を受けています。従って責任もあり、義務もあるので、之を責めるのは厳しくなければいけません。もちろん上に厳しく下に寛大にする事です。これが孔子の教えです。世の中もまたこうでなければいけません。
もし、上下間で争い・過ちがあった場合、上位の者が責任を取るべきです。上位の者は社会から受ける名誉や境遇が違いますから上位の者が責任や義務を負わないで下位の者に及ぼすべきではありません。凡てのものが平等であるといっても、水が平等であったら流れていく所がなくなります。又上が清い水であれば下も清い水であるべきです。下も者に不徳があっても上の者に「徳」があれば下の者は直ちに直すことが出来ます。
上に立つ者の身正しければ、下の者もそれに感化されるのです。
子曰わく、その身正しければ、令せずして行われ、
その身正しからざれば令すと雖も従わず。
子路第十三 仮名論語185頁3行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
先師が言われた。「上にある者が、正しければ、命令しなくともよく行われ、
正しくなければ、どんなに厳しい命令を下しても、民はついてくるものではない」
季康子、政を孔子に問う。
孔子對えて曰わく、政は正なり。
子師いるに正しきを以てすれば、孰か敢えて正しからざらん。
172頁をお開きください。 5行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
季康子が政治の要道を尋ねた。
先師が答えられた。「政は正です。あなたが、率先して正しくされたなら、誰が敢えて不正を行いましょうか。
先の章を含めてこの3章はみな同じ主旨のことを言っています。
政治家が自ら正しいあり方をしていれば、民衆はそれを模範として従ってきて、厳しい命令で強制する必要はないのです。道徳による政治は、政治家の道義的な正しさを強く求め、その意味でまた君主のあり方をも強く規制するものでした。
先の章では季康子の質問に対して、「政とは正なり」と答えています。貴方が率先して正しくされたなら、誰があえて不正を働くでしょうか。
君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之に風を上うれば、必ず偃す。
総て君子・人の上に立つものの心構えを言っているのです。
つづく
宮 武 清 寛
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