2885.徳(14)徳を嵩くし慝を修、惑を辯ぜんことを問う | 論語ブログ

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徳(14)徳を嵩くし慝を修、惑を辯ぜんことを問う

 

樊遲(はんち)従(したが)いて舞雩(ぶう)の下(もと)に遊ぶ。

曰わく、敢(あえ)て徳を嵩(たか)くし慝(とく)を修(おさ)惑(まどい)を辯(べん)ぜんことを問う。

子曰わく、善いかな、問うこと。事を先にして得(う)ることを後(あと)にするは、徳を崇(たか)くするに非(あら)ずや。其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝(とく)を修むるに非(あら)ずや。一朝(いっちょう)の念(いかり)に其の身を忘れて以て其の親(しん)に及ぼすは、惑(まどい)に非(あら)ずや。

   顔淵第十二   仮名論語1757行目。

   伊與田覺先生の解釈です。

樊遅(名は須)が先師のお供をして舞雩台のほとりに遊んだ時に尋ねた。

「恐れいりますが、徳を積み、慝(心の奥深くひそんでいる悪)を取り除き、迷いを解くことをお教え下さるようお願い致します」

先師が答えられた。「大変よい質問だね。やるべき事を先にして自分に取り込むことを後回しにするのが徳をたかく積むことになるのではないかね。

自分の悪を厳しく責めて、人の悪を責めることの無いようにするのが慝を取り除くことになるのではないかね。

一時の怒りにわが身を忘れて暴発し、その責を親族にまで及ぼすことは、迷いではないかね」

 

昨日出てきた、崇徳・修慝・辯惑がこの章でも出てきます。修慝が増えていますが徳を崇くし慝を修め惑いを辨ぜんことを問うと出てきます。これらは脚韻をふんだ道徳に関する標語です。子張によって初めて考えられた表現ではなく古くから使われていた言葉である事が想像されます。

樊遅はある時孔子と二人で、雨乞いの祭りの時に舞いを舞う台、舞雩(ぶう)の下にゆっくりとした時を過ごしていました。舞雩台(ぶうだい)は魯国の首都曲阜の郊外にあり、そこには林があり散歩の場所でもありました。現代でも整備され曲阜市民の憩いの場となっています。

樊遅はこの機会を捕えて、どうしても質問をしておこうと思い、少し勇気を振り絞って切り出しました。「敢(あえ)て徳を嵩(たか)くし慝(とく)を修(おさ)惑(まどい)を辯(べん)ぜんことを問う」・・・あえて質問します。徳を崇め、邪悪を除き、迷いをはっきりさせる、この三つの事について教えていただけませんでしょうか。嵩徳(すうとく)・徳を高める。脩悪(しゅうあく)・邪悪を除く。弁惑(べんわく)・迷いをはっきりさせる。の三つの言葉は、当時使われていた成句のようです。

孔子は答えます、「善いかな、問うこと。事を先にして得(う)ることを後(あと)にするは、徳を崇(たか)くするに非(あら)ずや」・・・よい質問だね。お前に仁について教えた時に言ったように、大事なことを先にし、利益を後にするのが徳を高める事ではないかね。

自分のやるべきことを第一に務める。この時、それによってどのような報いがあるか、何を得られるかということは考えない。それは後回しにするのです。それでは、自分の仕事をしてそれ相応の報酬が得られないことがあるかもしれません。しかし、それでも望むところがない。これが徳を崇くすることです。

徳を崇くする、この「崇」は「厚くする」「積む」の意味です。「崇くする」と「高くする」は違います。「高い」は「低い」に対する言葉です。たった10㎝の高さでも、1㎝に比べると「高い」と言えます。高いといっても見上げる程に仰ぐほど高いとは言えません。「崇い」は、段々と積んでいき、厚くなり高くなる。段々との意味が重要で、「徳」というものは段々積んで、次第に高くなるものです。そして、ただ高いだけではなく富士山の裾野のように平面的にも広さがあり、高さと深さもあり、重々しいのです。

「其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きは、慝(とく)を修むるに非(あら)ずや」・・・自分の悪い事を責めて、人の悪事を責めないのが邪悪を除くことではないのか。「一朝(いっちょう)の念(いかり)に其の身を忘れて以て其の親(しん)に及ぼすは、惑(まどい)に非(あら)ずや」・・・一時の怒りに我が身を忘れ、近親者までを巻き添えにするのは迷いではないかね。と。

まず第一は、事を先にして得ることを後にする。人は仕事よりも報いを求める心が先に立っているから、欲望が増長します。反対に自分が成すべき事をまず十分にやって、その報いを考えなければ、徳はおのずから積まれてくるものです。先事後得、これこそ徳を高くする方法です。

第二は、其の悪を攻めて人の悪を攻むること無きようにする。慝(とく)は、訓読みで、わるい・よこしま・わざわいと読みます。だから、心の中に潜んでいる悪をさします。だれでも、自分の事は美化しようとします。自分の醜さには気づかないのです。まして、心の中に潜んでいるものだったら、なおさら自覚症状がないのは当然です。それを押さえ込むには、よほど自分に厳しくなければならないわけです。

そして第三は、一朝(いっちょう)の念を抑える。一時の怒りで自分の立場を忘れ、一族にまで災いをもたらすのは、心の平静さを欠くからです。赤穂浪士の討ち入りの発端は赤穂の藩主浅野内匠頭長矩の江戸城松の廊下の刃傷におよんだからです。一時の怒りで赤穂藩取り潰し、お家は断絶、藩士や家族にまで犠牲を強いたのです。

一時の小さな怒りを我慢できずに人と争うと、その禍は近親者まで巻き添えにします。これは代償をわきまえない惑いです。その惑いがわかれば、これをはっきりさせて取り除くこともできます。大小軽重をわきまえる事が惑いを識別することです。

 

 つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

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