広島平和記念日 2023 / ゴルバチョフ元大統領と広島
78回目の夏が訪れました。
今は原爆ドームと言う名称で世界文化遺産に登録されている、産業奨励館は大正時代に完成しました。
1879(明治12)年9月15日に、内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策として第1回共進会が横浜で催されました。
主催は内務省で、政府と地方官庁が優秀農工産物を一般から出品させて展示し、生産技術の交流と向上を図ったものでしたが、特に輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また輸入防遏(ぼうあつ)の観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視されました。
形式的には品評会として開催し、入場料を支払えば一般の人も参加することが可能で、生産者と販売者に優劣を競わせ、品質改良・産業振興を促進させるために、全国で開催されました。
広島では1915(大正4)年に共進会の開催が行われることとなり、建設が予定されていた広島県物産陳列館が会場として使われることに決まりました。
当時、日清戦争を契機に発達した各県製品の販路を開拓する拠点として物産陳列館や産業会館などが、全国各地で建設されつつありました。
広島の物産陳列館は広島県が計画主体で、建設地は元安川に面する旧広島藩の米蔵跡地でした。
設計者はチェコ人建築家のヤン・レツルで、広島県知事の寺田祐之氏が宮城県知事だった時代に、松島パークホテルの設計を見ていたことが縁となって、レツル氏へ設計を依頼したと伝わります。
レツル氏が設計の図面と仕様の一式を完成させたのは1913(大正2)年10月4日で、1915(大正4)年4月5日に竣工しました。
柿ら落としが共進会初日で、5月14日までの期間中に78万人が来場しましたが、現在は100万人都市の政令都市広島なものの、当時の人口は13万人の時代でした。
尚、余談ですがレツル氏の設計ギャラは当時の金額で4575円との記録が残っているものの、新橋~広島間の特急さくら号の運賃は、三等で5円17銭・二等7円75銭、特急富士号の一等車は13円33銭でした。
共進会は5月14日まででしたが、本来の広島県物産陳列館としては8月5日のオープンでした。
その後、1921年に「広島県商品陳列所」、1933年に「広島県産業奨励館」と改称され、広島県内の物産の展示・販売のほか、広島県美術展覧会、博覧会、共進会、菓子博などの文化的催しに利用されました。
そして忘れてはならないのが、日本初のバウムクーヘン販売も行われています。
しかし、1944(昭和19)年3月になると産業奨励館としての業務は廃止され、戦時下の統制会社の事務所へと変わり、8月6日の人類史上初となる核攻撃を迎えます。
それから78年の時が経ち、ヒロシマへは先進7ヶ国の首脳が集うことになりました。
被爆地に集った首脳は、原爆で奪われた数多の命に思いを馳せたはずなのに、世界では「核には核」で抗する核抑止論が勢いを増しているように感じます。
核兵器を持つ国はそのボタンを手に握りしめたまま平和を謳い、世界の結束のかけ声の下で分断も進んでいます。
去る5月19日の正午過ぎ、世界で唯一となる核攻撃を実戦で使用したアメリカ合衆国と、G7の首脳たち9人は平和記念公園の中央参道を歩み、原爆慰霊碑に花輪を手向けました。
原爆資料館では、 あの日の地獄の惨禍を目撃し、人類の犯した最も重い罪に心を揺さぶられたその時間は40分。
そこで何を感じ何を心に得たのか垣間見えたのは、首脳たちがその日に合意した″核軍縮文書 = 広島ビジョン″でした。
それぞれの国にも守るべき国民と平和があり、各国の思惑と立場を総括したその合意文書は、核被害者とその遺族・家族の願いとはほど遠いものでした。
HIROSHIMAの平和ブランドを冠させながらも、核抑止の役割を正当化した上に、国際法として発効した核兵器禁止条約の存在を無視。
ロシアのプーチン大統領は同盟国のベラルーシへの戦術核兵器配備に着手し、軍事非同盟を貫いていた北欧2ヶ国の内、フィンランドが北大西洋条約機構 = NATOへ加盟し、核の傘下へと合流。
スウェーデンのNATO加盟も先月決まりました。
「現代の世界に核による脅しの居場所はない」
広島G7サミットへ電撃参加したウクライナのゼレンスキー大統領が、原爆資料館の芳名録に残したことばです。
「他国への侵略を妨害するのなら核兵器の使用も辞さない」というプーチン大統領の恫喝に、有事には「核兵器の使用も致し方ない」と身構えるG7首脳の、核抑止論もやはり脅迫に基づく安易な安全保障政策でしょう。
そこには安全の保障など存在しない安全保障という、矛盾に満ちた愚策でしかありません。
世界にそれを気づかせるのがヒロシマの役目ですが、世界の中の日本であることは間違い無い現実で、日本国内への偏見と差別への働きかけも広島の役目であると言えます。
ヒロシマの心は、いつになったら日本国内そして世界に届くのでしょうか。
さて、今年は心筋梗塞を患って少し人生観やいろんな物の在り方に変化がありました。
例年なら8月6日の記事でブログスタンプへの抗議と批判を行って参りましたが、今年は既に7月31日に記事化 しております。
被爆者への差別は、絶対に受け入れたり許せたりできるものではないので、これからもサイバーエージェントとアメーバブログに対しては、抗議と批判を継続して参ります。
戦争がどうの、核兵器がどうの、被爆者だからどうのと言った事も確かなのですが、それよりももっと単純な話しで、被害者とその遺族・家族の心の苦しみを訴えているだけのことなのですが。
この7年間に渡るアメブロの、被害者とその遺族・家族の心情を蔑ろにする無関心は非人道的な対応です。
アメブロ──サイバーエージェントは、凄い会社だと思います。
毎年どころか時間と共に増えていく利用者の、その膨大な全データを保持するためには、機器の増設や更新と共に膨大な予算が必要となります。
それを遣り繰りするために、次々と新事業や新サービスを展開して、常に健全経営であるように努めています。
ルールやガイドライン、そしてポリシーをしっかりと決議して公開し、運営も健全な運用をこなしています。
利用者はだからこそ安心してアメブロを利用でき、いろいろなサービスを楽しむことができています。
それ故に残念で仕方がないのところが、理念では立派な理想論を掲げておきながら、非人道的な差別につながっているものを、このままいつまでも許すことができないところです。
差別は概ね悪意の無い人たちがしているもの•••••••なので、利用者の心の苦しみをちゃんと受け止めて欲しいと願います。
私、そして私たちが望んでいることは、それほど難しいこととは思えません。
その他のブログスタンプと同様に、8月6日に制定されている他のブログスタンプに、差し替えて欲しいと訴えているだけです。
沖縄の慰霊の日のように、原爆の日または平和記念日にせよとは、一言も要求していません。
なぜアメブロは毎年「ご連絡の内容につきましては担当部署と~」と、返信をよこすのにその都度黙殺されてしまうのか。
自動返信だから、結局は見ていないのではないのか、もしくは見た上であえて破棄されているのかと、悔しく思います。
サイバーエージェントと言う会社は、被害者や弱者は社会の敗者だとでも思っていて、それ故に差別をする企業なのか•••••••。
被曝者は高齢化が著しく、あと数年で死滅してしまう存在だから、放っておけばいいとほくそ笑んでいるのか。
だとしたら、それは決して許されないコンプライアンスです。
今年も今日・明日にでも、再び抗議と要望のメールを送信しますが、来年こそは本当の意味での健全化が成されることを祈ります。
2022(令和4)年8月31日 18時20分。
旧ソビエト連邦共和国のミハイル・ゴルバチョフ 元大統領が死去されました。
大統領現役時代の1990年7月に「広島には、ぜひ行きたい」とクレムリンで述べられていましたが、現役での来広は叶いませんでした。
東西冷戦を終結に導きノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ氏は、1992~2000年の間に3度 被爆地 広島を訪れており、1992年4月の広島市来訪時に面会した平岡敬元市長(94)は「新しい歴史を開いた人だった」と悼みました。
複数のロシアメディアは、ゴルバチョフ元ソ連大統領は30日、モスクワ市内の病院で「深刻で長期にわたる病気の末、亡くなった」と報じました。
ゴルバチョフ氏は、ソ連末期、政治体制改革 = ペレストロイカを推進し、1990年にソ連の初代大統領に就任。
東西冷戦を終結に導いた功績により、ノーベル平和賞を受賞したものの、1991年のクーデターは未遂で終わったものの、その影響は大きく求心力を失い大統領を辞任。
それによりソビエトは連邦国家を解散し、ソ連は無くなりました。
ソ連崩壊の翌年、ゴルバチョフ氏は広島を訪れた際、原爆資料館を視察した折に「歳月がヒロシマの悲劇の痛みをやわらげることはできませんでした。このことは決して繰り返してはなりません。私たちは原子爆弾の犠牲者のことを決して忘れてはなりません」と芳名録に記帳しました。
「広島は永遠に人類に警鐘を鳴らす町として残るでしょう」──ゴルバチョフ氏のことばが耳に残ります。
広島市の松井 一実 市長は「改めて平和への思いを実践された為政者であるゴルバチョフ大統領に対し、深く敬意を表します」と弔意を表しました。
ソ連崩壊30年だった昨年12月、ゴルバチョフ氏は、JNNの書面インタビューに応じ、ロシアが侵攻を始める前で緊張が高まっていたウクライナ情勢などをめぐりこう答えていました。
「責任ある対話への移行が一刻も早く行われるべき」
「ロシアの未来は1つ、民主主義だ」
また中国新聞社長の岡畠鉄也氏がまだ現役の記者だった当時、ゴルバチョフ氏へ「広島の声は 世界に本当に届いているのでしょうか」と質問。
それにはきっぱりと「もちろんだ」と力強く答えていたそうです。
1985年11月に、スイスのジュネーブにてアメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン氏と米ソ首脳会談(通称「ジュネーブサミット」)が行われました。
その会談を単なる会談で終わらさず、核兵器削減など軍縮の流れをつくりだし「核戦争に勝者はなく、決してその戦いはしてはならない」との「レーガン・ゴルバチョフ宣言」を残しました。
ゴルバチョフ氏は「自分とソ連だけでなく、アメリカにもその魂の叫びは届いていて、あの宣言のベースになっている」と答えました。
「核兵器が、もはや安全保障を達成する手段となり得ないことは、ますます明確になっています。実際、年を経るごとに、核兵器はわれわれの安全をより危ういものとしているのです」と洞察。
「被爆者の呼び掛けには私も賛同する。核のない世界を作り出そう」──言葉には、平和への思いがあふれていました。
平岡元市長は原爆慰霊碑や原爆ドームを案内し、1986年の旧ソ連 チェルノブイリ原発事故について、事故による被曝者が増える深刻な状況について言葉を交わし「彼も重大な問題だと語っていた」と振り返っていました。
記者団に取り囲まれると慰霊碑や原爆ドームを見回し「すべての核保有国は核実験禁止を声明すべきだ。核兵器削減交渉をさらに続け、全廃に持ち込まなければならない」と言い切っていました。
その反面で、市民集会では核超大国の指導者時代を振り返り、悩みを打ち明ける場面もありました。
「懐疑や皮肉もあった。私も自信はなかったんだ」
書記長就任後10ヶ月余りの1986年1月15日、今世紀中の核兵器廃絶を提案した時のことだそうです。
常にそばに寄り添うライサ夫人は「世界の平和こそが、人類が求める最高の幸せです。それは私たちの家庭が求める幸福でもあるのです」と付け加えるました。
そして亡くなる直前•••••••来日以来、ライサ夫人とともに笑みを振りまいていたゴルバチョフ氏、市民集会で被爆者と向き合った時の優しいまなざし──その目に映るのはウクライナへ侵攻するロシア兵たち。
元市長も中国新聞社長も「必ずしも彼の描いた世界が来ていないのではないか。それは残念だったと思う」と、ロシアの兵士がウクライナの街並みを破壊し尽くす光景を、どんな思いで見ていたのだろうかと思いを巡らせます。
最晩年「人命より尊いものはこの世にありません」と、プーチン大統領へ交渉と対話による解決を呼びかけました。
ゴルバチョフ氏が残した「核戦争に勝者はなく、決してその戦いはしてはならない」との言葉は、いま人類が共有していかなければならない重要な課題です。
その課題解決のために出来ることは何かを常に問いながら、ヒロシマの使命を果たしていけるよう、尽力していかなくてはなりません。
平和記念公園では夫妻が移動するたびに、修学旅行の小学生や市民らが「ゴルビー」と声をかけ、ゴルバチョフ氏は何度も右手を挙げてこたえていたその光景を、懐かしむ多くの人がこの広島にはいます。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
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