特急さくら誕生100周年記念の日 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

特急さくら誕生100周年記念の日

特急さくら100周年

日本の象徴であり心である花、その美しい名前を持つ列車は1923年(大正12)年7月1日、東海道本線・山陽本線にてダイヤが改正が行われ、東京~下関間に日本で2番目となる特急列車として誕生しました。

今日の写真は、普通に撮影したもの、普通に撮影してヘッドマークを合成したもの、コラージュにしたものなどを豪華絢爛に並べています。

それでは日本で最初の特急列車についても、少し触れながら始めましょう。

1872(明治5)年10月14日に日本で鉄道が正式開業してから27年後の1899(明治32)年4月1日、山陽鉄道(現 JR山陽本線)が神戸~三田尻(現 防府)間に速達タイプの列車を登場させ、最急行と名づけられたのが日本の高速輸送の始まりです。

特急さくら100周年

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1906(明治39)年4月16日、運賃に加えて速達サービスのための料金を徴収する、最急行1・2列車が新橋~神戸間に誕生しました。

1912(明治45)年6月1日より、最急行の運転区間を新橋~下関間へ延長することとなり、列車種別の呼称は特別急行へ変更されます。

関釜連絡船を介して中国やヨーロッパなどへの国際連絡運輸の一翼を担う特別な列車として、一等・二等車のみで編成されて和洋中を提供する食堂車、最後尾には展望車が連結されるなど、当時の日本の国威を諸外国へ示す、まさに特別な豪華列車でした。

この特急1・2列車は1930(昭和5)年に富士と命名されましたが、特急富士は2009(平成21)年3月14日を以て97年の歴史を閉じており、現在は存在していません。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

特急1・2列車から遅れること11年後に誕生したのが特急3・4列車で、1930(昭和5)年に特急櫻(さくら)と命名され、現在は新幹線となって新大阪~鹿児島中央間を走っていることは、誰もが知るところです。

尚、1914(大正3)年12月に東京駅が開業すると、1・2 列車と3・4列車は新橋駅始発から東京駅始発に変更されました。

特急富士は戦後、一時期は151系電車を使用した電車特急の時代がありましたが、特急さくらは在来線特急時代は一貫して客車列車として走り続けた列車です。

現在新幹線として営業しているネームドトレインが在来線特急時代に、客車列車であり続けた列車名は、さくらの他には″のぞみ″と″はやぶさ″がいます。

特急さくら100周年

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のぞみ号はさくら号と同時期となる1923(大正12)年、釜山~奉天(現 瀋陽)間の国際急行として登場し、1934(昭和9)年にのぞみと命名、1938(昭和13)年には新京(現 長春)まで延長運転された帰国子女列車です。

はやぶさ号の誕生は20系ブルートレインのイメージが強いため、戦後の生まれと勘違いされやすいのですが、1942(昭和17)年11月15日に関門トンネル開業に際し、そのダイヤ改正によって誕生した急行列車でした。

1942(昭和17)年のダイヤ改正では、特急富士が長崎港まで乗り入れての運転に延長されて大陸連絡の新しいルートを構築したのに対して、特急さくらは関釜連絡船接続の任務が継続されて、下関行きとして存置されました。

急行はやぶさは西鹿児島(現 鹿児島中央)行きとして設定されたので、その走行距離や所要時間からの都合で、それまで特急さくらが走っていたダイヤを譲ってもらっての運行でした。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

また、特急さくらと編成も共通運用だったこともあり、第一種急行という、特急列車に準じた扱いの急行はやぶさでした。

そして共食サービスですが、特急富士は一等車・二等車のみで編成されていたのに対し、特急さくらは誕生時は三等車のみの編成で、食堂車も特急富士は洋食堂車、特急さくらは和食堂車の連結と区別されていました。

急行はやぶさにダイヤを譲る以前の特急さくらは、特急富士の15分後に発車する続行列車で、華族や高官・要人を対象にしていた特急富士の補完列車という位置づけでした。

ルールやマナーなどが覚束ない庶民のための列車で、食堂車が和食だったのも普段食べ慣れていない食事の提供よりも、和食を提供した方が旅客サービスとしてかなっていた故です。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

なので、和食堂車と言っても既に庶民で浸透していた、オムレツやカレーライスなどの軽洋食はメニューに載せてありました。

現代でも、予備知識ナシに高級レストランへ行くと、メニューに何が書いてあるのか解らなかったり、日本語表記でもそれがどんな料理なのか分からない事もあります。

今なら事前にネットで調べたり、普通にスタッフさんに質問できる人が多いでしょうが、戦前の庶民は質問することが許されるのかどうか悩む人が多かったため、ストレスなく食事をできるようにと、特急さくらは和食堂となっていました。

さて、さくら号は今日100歳をむかえましたが、その間にはいくつかの時代に分けることができます。


特急さくら100周年

最初はまだ名づけがなされていなかった1923年(大正12)年~1930(昭和5)年、そして″さくら″と名づけられてから戦争が激化する欧亜国際連絡特急時代となる1930(昭和5)年~1943(昭和18)年。

戦後に運行された1951(昭和26)年~1958(昭和33)年までの季節列車の時代と、1958(昭和33)年10月〜1959(昭和34)年の特急平和として走った時代。

1959(昭和34)年~2005(平成17)年までの寝台特急(ブルートレイン)として走ったのが1番長く、高度成長期からバブル経済といった日本が世界を疾巻した時代から、経済大国からの没落の時代を走りました。

そして2011(平成23)年から100周年を迎えた2023( 令和5)年、山陽・九州新幹線で運行している新幹線さくらの現代となります。

特急さくら100周年

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では、首都圏と下関へ2本の特急列車が必要だった1923年(大正12)年とは、日本そして世界はどのような時代だったのでしょう。

1923(大正12)年と言えば直ぐにピンと来る人も多いと思いますが、9月1日 午前11時58分に発生した、最大震度6・マグニチュード7.9の関東大震災でしょう。

死者約9万9000人、行方不明者約4万3000人、全壊家屋は約12万8000戸、焼失家屋は約44万7000戸に上りたが、震災が発生したのは特急さくらがデビューして2ヶ月後のできごとです。

鬼滅の刃 無限列車の戦いにおいて、炎柱 煉獄杏寿郎が戦死したのは、推定ですが1916(大正5)年であることは殆どの人が支持している時代で、特急さくらデビューの7年前に当たります。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

日清戦争・日露戦争によって経済文化の中心地だった大阪・神戸において、都市を背景にした大衆文化 = 阪神間モダニズムが芽吹き、やがて全国へ波及します。

21世紀の現在に続く、日本人の生活様式もこの時代に定着したものが多く、そのルーツが求められるものが多くあります。

これによって道路や交通機関が整備され、地方都市でも路面電車やバスなどが市内を営業し、乗用車の輸入によってタクシーや富裕層によるマイカーが走行しました。

第一次世界大戦ではイギリスの同盟国として参戦し、戦勝国として列強に数えられると共に、戦乱で荒廃したヨーロッパに代わり、日本とアメリカが世界市場の新興国として台頭しました。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

日本は国際連盟の常任理事国となり、国際社会における役割や責任も大きくなり、国際市場や文化水準でも歩調を合わせる時代を迎えました。

外国からの観光客や要人の来日が増え、日本人そのものの長距離移動も増え、それに見合う輸送手段が必要だったために、特急富士そして特急さくらの2往復体制が必要となった故の結果でした。

日本人気質によって、2本の特急列車は世界水準よりもやや上の設備を有していましたが、その究極は南満州鉄道で運転開始する特急あじあになるでしょう。

ロシア革命によって迫害を受けて亡命したロシア人も、日本国内や満州国に多く暮らすこととなり、ヨーロッパやアメリカ人など日本で暮らす外国人も含めて、国際色豊かで華やかな時代でした。

特急さくら100周年

特急さくら100周年

特急さくら100周年

さて、特急さくらデビューから100年間使われた歴代の客車は、なかなかな元資料が不足していたりなどでハードルが高く、今回再現することは叶いませんでした。

しかし牽引そして後押しを担った機関車は、代走など急遽臨時に就いた機と関門トンネル専用EF10を除いて、ほぼほぼ機関車を再現できていると思います。

まぁあらためて述べるほどでもないのでしょうけれど、14系のサロンカーなにわとサロンエクスプレス東京のさくらと、35系のミラー反転のさくらは、洒落で作ったものです。

さくら号誕生150周年は、私は110歳手前なので生きているとは思えませんが、今回の100周年で再現できなかった形式は、いつかの機会に再現できるといいなぁと思ってはいます。
 

 


リンクカードはJRE MALLで通信販売されている、復刻硬券切符の中から20系と14系の特急さくらA寝台券を貼ってみました。


そして歴代のヘッドマークとテールマークを、壁掛け展示風に並べてみましたが、今回の再現はこのデータを使いました。


ちなみに″さくら試運転″は実際に20系客車を特急さくらへ投入する前に、長崎本線で試運転を実施した時に付けられたものの再現ですが、冒頭のニーナとEF66-27号機のヘッドマークは、実在するものではなく表紙画像としてデザインしてみたものです。


再現写真の評価は賛否両論あるのかも知れませんが、2月から少しずつ写真の加工をしたり文章を書いたりして、やっと7月1日を迎えた今日の記事でした。


 

 



日本最古の特急列車 さくら号の走った100年は、旅客優等列車だからこそのその時代の人々を運び、それはまさに日本史そのものだと言えます。

 

戦火に揺れたヨーロッパ各国に代わり、日本とアメリカの両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた時代。

 

世界的に品不足となった影響で繊維業に付随し軽工業が、そして造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展し、化学工業や医薬品工業も一気に近代化が進んだ時代。

 

戦禍に巻き込まれながらも、好景気や人権問題に揺れた時代••••••••日本が近代国家として国際社会で急成長したその時代に、特急さくらは生まれました。

 

 
マイフ97形1等客車
 
戦後の混乱期を過ぎて高度成長期の時代に復活し、バブル景気の時代を走り抜けてその国際社会で日本経済が輝きを失った、その時代で役目を終えて廃止となった特急さくら。
 
九州新幹線が先行開業した時にブランドを引き継いだ特急つばめは、山陽新幹線と直通運転を開始した時に速達タイプの列車とはならずに。
 
大和と共に日本の古称となる瑞穂がその役目の列車名を名乗り、特急さくらは快速タイプの新幹線として復活。
 
新大阪~鹿児島中央間の区間運転ながら、これからの日本の100年を再び、その時代の人々を運んで行くことでしょう。
 

 

 
 

 

特急さくら誕生100周年は前述の通り、関東大震災100年の節目の年でもあります。
 
この100年で災害も、全国で非常に多くの命を奪いました。
 
特急さくらの誕生は1923年(大正12)年7月1日ですが、2ヶ月後の9月1日に首都を襲った大震災となります。
 
内閣府の公式 特設サイトへの他、気象庁と東京都へのリンクも貼りました。
 
ちなみに今日の更新時刻ですが、1番早い新幹線さくら号の始発は、鹿児島中央発 博多行きの″さくら400号″の6時4分なので、その発車時刻に合わせました。
 
 
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