ネガティブ・ケイパビリティという言葉が、その後もずっと私を支え続けています。
難局に直面するたび、この能力が頭をかすめました。
この言葉を思い起こすたびに、逃げ出さずにその場に居続けられたのです。
その意味では、私を救ってくれた命の恩人のような言葉です。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)
〈問題〉を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。
なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。
さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。
目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ち着かず、及び腰になります。
そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。
世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのはそのためです。
「分かる」ための究極の形がマニュアル化です。
マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片づけられ、対処法も定まります。
ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。
ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティ
ところが、後で詳しく述べるように、ここには大きな落とし穴があります。
「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しないのです。
まして理解が誤っていれば、悲劇はさらに深刻になります。
私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。
学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。
問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。
論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。
キーツはシェイクスピアにこの能力が備わっていたと言いました。
確かにそうでしょう。
ネガティブ・ケイパビリティがあったからこそ、オセロでの嫉妬の、マクベスでの野心の、リア王で忘恩の、そして、ハムレットでの自己疑惑の、それぞれの深い情念の炎を描き出せたのです。
私たちが、いつも念頭に置いて、必死で求めているのは、言うなれば、ポジティブ・ケイパビリティ(positive capability)です。
しかし、この能力では、えてして表層の「問題」のみををとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまいます。
いえ、その問題の解決法や処理法がないような状況に立ち至ると、逃げ出すしかありません。
それどころか、そうした状況には、はじめから近づかないでしょう。
なるほど私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようがない状況は、不快です。
早々に解答を捻り出すか、幕をおろしたくなります。
しかし、私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事項に満ちています。
むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。
だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。
私自身、この能力を知って以来、生きるすべも、精神科医という職業生活も、作家としての創作行為も、随分楽になりました。
いわば、ふんばる力がついたのです。
それほどこの能力は底力を持っています。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』はじめにより抜粋引用
貫井投稿