崇高なもの、魂にふれるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにあります。
むしろ人生の本質は、そこにあるような気がします。
問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事項は、人生のほんの一部でしょう。
残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴みとるものです。
それまでは耐え続けなければならないのです。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)
解決できない問題に向かうために
ところてん式の進級と進学に輪をかけているのが、試験です。
この試験突破こそが、学習の最終目標と化してしまうと、たしなみ、素養としての教育ではなくなります。
問題解決のための学習、勉強になってしまうのです。
こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。
もっと端的に言えば「欲望」です。
教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。
物差しが基準ですから、そこから逸したさまざまな事項は、切り捨てられます。
何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。
そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。
しかし、ここには、何かが決定的に抜け落ちています。
世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。
前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。
そこでは教える側も、教えられる側も、視野狭窄に陥ってしまっています。
無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。
もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。
この教育の場では、そもそも解決のできない問題など、眼中から消え去っています。
いや、たとえ解決できても、即答できないものは、教えの対象にはなりません。
教育者のほうが、教育の先に広がっている無限の可能性を忘れ去っているので、教育される側は、閉塞感ばかりを感じ取ってしまいがちです。
学習の面白さではなく、白々しさばかりを感じて、学習への興味を失うのです。
学べば学ぶほど、未知の世界が広がっていく。
学習すればするほど、その道がどこまでも続いているのがわかる。
あれが峠だと思って坂をのぼりつめても、またその後ろに、もうひとつ、高い山が見える。
そこで登るのをやめてもいいのですが、見たからにはあの峠に辿りついてみたい。
それが、人の心の常であり、学びの力でしょう。
つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄でしょう。
教育の現場が視野狭窄に陥っているため、親はそれ以上に視野が狭くなっています。
学校の課題だけを早くこなすように、子供に強制しがちです。
早くやりなさい、ぐずぐずしないで宿題を先にしなさい。これが口癖になります。
学習と言えば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点してしまいがちです。
世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子供に伝えるのさえも忘れてしまいます。
星の美しさ、朝日や夕日の荘厳さ、木々の芽吹きの季節のすこやかさ、花々の名前や木々を飛び交う鳥の姿と鳴き声も、まず大人の感受性はとらえられなくなっています。
子供に伝えられるはずがありません。
美術館で、ひとつの絵や彫刻を前にしたときの感動も、大人が関心を持っていなければ、子供が感動を覚えるはずがありません。
まして、音楽や美術には、問題設定もその解決もありません。
むしろ、解決できない宙ぶらりんの状態で、その芸術家が何とかして自分なりの仮の解答をさし出したのが芸術だからです。
芸術には、問題解決という課題が課せられていないので、学習がまだその本質を失っていません。
見た者、聞いた者は、何かを感じ、生の喜びを実感します。
人生の無限の深さに感動するのかもしれません。
詩もそうでしょう。
詩はそもそも、何かを解決するため、結着をつけるために書かれるものではありません。
音のつながり、意味の連関を味わい、感動するものです。
孔子の言行を収録した『論語』は、およそ三分の一が芸術論になっているそうです。
論じられているのは、絵画、詩、演劇、音楽で、真の人間になるためには、芸術を学ばなければならないと強調されていると言います。
おそらくそれは、わけの分からないもの、解決不能なものを尊び、注視し、興味をもって味わっていく態度を養成するためなのかもしれません。
崇高なもの、魂にふれるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにあります。
むしろ人生の本質は、そこにあるような気がします。
問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事項は、人生のほんの一部でしょう。
残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴みとるものです。
それまでは耐え続けなければならないのです。
私が思い出すのは、第二章で述べたビオンの言葉です。
ネガティブ・ケイパビリティを持つには、記憶・理解・欲望が邪魔をするとビオンは断言します。
現代の教育は到達目標という欲望があるために、時間に追われながら、詰め込み記憶を奨励しつつ、とりあえず理解させようとします。
ネガティブ・ケイパビリティが育つべくもありません。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』より一部引用
貫井投稿