覚醒のひかり

覚醒のひかり

縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合っていきたいと思いまあああす!(貫井笑店)








第1話、悟りに最も近道となるものは何か・・・等が語られている。








第2話、「今、ここにいる!」とはどういう事なのか・・・等が語られている。








第3話、悟りの状態とは何か・・・等が語られている。








第4話では、身体の中心を丹田に下す瞑想法で、丹田の位置や、チャクラ、そして、なぜ身体をスパイラルに回すのか・・・等も語られている。








第5話、どの国の人々が一番速く悟るのか・・・、Oshoが強烈に指で示した国とは、一体どこだったのか・・・等が語られている。








第6話、緊張感を抜いていく方法や丹田について語られている。








第7話で紹介されている瞑想法は、「氷が解けたら水になる!」のではなく、「氷が解けたら春になる!」というような、そういう豊かな感性が磨かれていく瞑想法ともいえる。










第8話、アージュナー・チャクラ(第三の目)を自然と開く方法が語られている。









第9話、日本列島の大地のエネルギーについて語られている。








貫井投稿




『 惨めさを祝いなさい! 』      




悲しみには深みがある。 





幸福には浅薄さがつきまとう。 

   



osho












惨めさについてさえ、あなたは喜び祝う態度をとることができる。






例えば、あなたが悲しいとき、悲しみに同化してはいけない。




観照者になり、その悲しみの瞬間を楽しみなさい。





というのも、悲しみには独特の美しさがあるからだ。




あなたは一度も見守ったことがない。




あなたは完全に同化してしまうので、悲しみの瞬間の美しさにけっして入っていかない。




見守ったら、自分がどんな宝物を見逃していたか、あなたは驚くだろう。






見なさい = 幸福なとき、あなたはけっして悲しいときのように深くない。




 
悲しみには深みがある。






幸福には浅薄さがつきまとう。






幸せな人たちのところへ行って見てみるといい。

いわゆる幸せな人たち、遊び人の男や女、クラブや、ホテルで見かける人たち、劇場や映画館など、そういった人たちはいつも笑っていて、幸せにわきたっている。






彼らはいつ見ても薄っぺらで、上辺だけであることに、あなたは気がつく。





彼らには深みというものがない。






幸福は表面にしかない波のようだ。





あなたは上辺だけの人生をすごす。





だが、悲しみには深みがある。





あなたが悲しいとき、それは上辺だけの波ではなくて、まるで太平洋の深海のようだ。何千メートルもの深みがある。






その深みに入っていって、それを見守ってみるといい。






幸せは騒がしいものだ。





悲しみには静けさがある。





幸せが昼のようだとしたら、悲しみは夜のようだ。




幸せが光のようだとしたら、悲しみは暗闇のようだ。




光は来ては去る。




暗闇はとどまる。




それは永遠だ。






光がたまに生じる。





暗闇はつねにそこにある。





あなたが悲しみのなかへ入っていくと、このすべてのことが感じられる。




突然、あなたは悲しみが対象としてそこにあって、自分が見守り観照していることに気がつき、そして突如として、あなたは幸せを感じはじめる。





 
こんなに美しい悲しみ! それは暗闇の花、永遠の深みの花だ。






底無しの深淵のように、とても静かで、とても音楽的だ。




いっさいの雑音がなく、妨げるものはない。




人は無限にそのなかへ落ちていくことができるし、すっかりみずみずしくなってそこから出てくることができる。





それは休息だ。




それは態度しだいだ。










悲しくなると、あなたは自分によくないことが起こったと思う。





自分によくないことが起こったというのは解釈なのだが、あなたはそこから逃げ出そうとしている。





あなたはけっしてそれに瞑想しない。





そのようなとき、あなたはだれかのところへ行こうとする。パーティーへ、クラブへ、あるいはテレビやラジオをつけたり、新聞を読みはじめたり、とにかく忘れようとしてなにかをする。





このような間違った態度、悲しみはよくないという態度が、あなたに教え込まれてきた。





それはなにひとつ悪いものではない。




それは生のもうひとつの極だ。




 
幸福は一方の極であり、悲しみはもう一方の極だ。




至福はひとつの極であって、惨めさはもうひとつの極だ。




生はその両方から成り立っている。




そして生にはこの二つゆえに規則性がある。




至福だけの生には広がりはあるが深みがない。





悲しみだけの生には深みはあるが広がりがない。




悲しみと至福の両方がある生は多次元的だ。




それはいっぺんにすべての次元のなかを動いていく。





仏像を眺めるか、または私の目のなかをのぞきこんだら、あなたはその両方をいっぺんに見いだすだろう。





至福、安らぎ、そして悲しみもまた。





あなたはそのなかに悲しみをも含んだ至福を見いだすだろう。





なぜなら、その悲しみが至福に深みをもたらすからだ。





仏像を眺めてみるといい。





至福に満ちているが、悲しげでもある。





この「悲しさ」という言葉があなたに間違った意味を連想させる。





なにかがよくないという。





これはあなたの解釈なのだ。





私にとっては、全体としての生が好ましいものだ。




そして全体としての生を理解して初めて、あなたは祝うことができる。




そうでないと祝えない。




祝祭とは、なにが起ころうと関係ない。




とにかく私は祝うという態度だ。




祝祭はなにかの条件に依存しない。




「幸せだったら私は祝う」とか「不幸せなら私は祝わない」とか。





祝祭は無条件であり、私は生を祝う。





生は不幸せをもたらすが、それでいい。




私は生を祝う。




生は幸せをもたらすが、それでいい、私は生を祝う。




祝祭は私の態度であり、生がもたらす条件には依存しない。




 
だが、私が言葉を使うために、それらの言葉があなたの心に連想を生じさせ、問題が起こってくる。





私が「祝いなさい」と言うと、あなたは幸福にならないといけないと考える。





悲しいのにどうして祝うことができるだろうか、と。





私は祝うために幸福にならないといけないとは言っていない。






祝祭とはなんであれ生があなたへもたらすものに感謝することだ。





神があなたになにを与えるにしても、祝祭とは感謝の気持ちだ。





それはありがたいと思うことだ。









 
 
 
 
 
正しい判断をして、
勇気を持って
一歩超えていく。
 
 
越えていって
また進んでいくと、
また同じようなことが
必ず出てきます。
 
 
これが
人生のトレーニング。
 
 
 
そのひとつひとつは微々たるものであったとしても、それが長い年月の間に大きな差になって、人間の成長につながっていくのではないかと、わたしはそう思っています。
 
 
佐藤初女
 
 
 
 
 
『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』一部引用
 
 
 
 
 




ティク・ナット・ハン





歩いてする瞑想を、おおいに楽しむことができます。



ゆっくりと、ひとりで、あるいは友人と、そしてできることなら美しい場所で歩くといいです。



歩いてする瞑想とは、歩くことをほんとうに楽しむことです。



どこかに到達するために歩くのではなく、ただ歩くために歩くのです。



その目的は、現在の瞬間を生きて、一歩一歩を楽しむことです。



そのためには、心配やあせりを払いのけ、未来や過去のことを考えるのではなく、現在の時を楽しむことが必要です。



そうしながら、子供の手を引いてもいいでしょう。



あなたが地球上で、最も幸せな人間であるかのように歩き、歩をきざみます。



私たちは、いつも歩いています。



でも、ふだんは、走るようにして歩いています。



そのように歩くとき、地球上に、あせりと悲しみを印しています。



地球上に平和と静かさを印すような歩き方をしなければいけません。



そうしたいという強い願望があれば、誰にでも、これができます。



どんな子供にもできます。



そのような一歩をきざむなら、ニ歩、三歩、四歩、そして五歩と進むことができます。



私たちが穏やかに、幸福に一歩を進めることができるとき、人類全体のための平和と幸福の支えを成すのです。



歩いてする瞑想は、素晴らしい実践です。




ティク・ナット・ハン

『仏の教え ビーイング・ピース ほほえみが人を生かす』より一部引用以上








































行き詰まったら、白紙に立ち返り


素直な気持ちで見直す


そうすることで、新しい発想が浮かぶ


それには、五官を常に、はっきりすっきりさせておいて


物事をありのままに見聞きすることである


河野十全


―「月刊人間・令和7年9・10月合併号」より





 

 




瞑想とは自分の思いや感じを閉めだすことだと思いこんでいる人もいますが、これはまちがいです。

 

 

 

 

何かを考えてしまうことが“悪い瞑想“で何も考えないことが“良い瞑想“である、と言うふうに考えてはいけません。

 

 

 

 

思い違いをしないように強調しておきますが、瞑想中に何かを考えるのは、悪いことでも望ましくないことでもありません。

 

 

 

 

問題は、考えることに自分が気づくかどうかということ、そして気づいた時点でどうするかということなのです。


 

 

 

 

ジョン・カバットジン

 

 

 

 





心にわいてくる想いをどう扱うか



 

 

瞑想中は、すべての思いを公平に扱うようにして、その内容とは関係なく、どんなものにも注意を向けるようにしてください。

 

 

 

そして、意識的に呼吸に注意を戻してください。

 

 

 

 

これは、重要な考えであっても、ささいなものであっても、意識的に一つひとつの思いをやりすごし、手放す練習なのです。

 

 

 

 

そうしたそれぞれの思いを、意識の領域に現れた個々の思いとして観察してください。

 

 

 

 

しかし瞑想中は、その思いがどんなに大事なことであっても、その内容に引き込まれないようにしてください。

 

 

 

 

あくまでも、意識の領域に勝手に現れてきた思いとしてあしらうようにしてください。

 

 

 

 

そして、その思いや考えがその瞬間の自分の心をどのくらい支配する力があるのかを観察した後で、その結果がどうであれ、手放してしまい、もう一度呼吸に注意を向けて、“自分の体とともに存在する“と言う体験に戻ってください。

 

 

 

 

自分の思いを手放すと言うのは、おし殺すと言う意味ではありません。

 

 

 

 

瞑想とは自分の思いや感じを閉めだすことだと思いこんでいる人もいますが、これはまちがいです。

 

 

 

 

何かを考えてしまうことが“悪い瞑想“で何も考えないことが“良い瞑想“である、と言うふうに考えてはいけません。

 

 

 

 

思い違いをしないように強調しておきますが、瞑想中に何かを考えるのは、悪いことでも望ましくないことでもありません。

 

 

 

 

問題は、考えることに自分が気づくかどうかということ、そして気づいた時点でどうするかということなのです。

 

 

 

 

そういう思いをおし殺してしまうと、おだやかさや安らぎは遠のいていき、緊張感や欲求不満が募り、いろいろな問題が生じてきてしまうのです。

 

 

 

 

注意を集中するというのは、心を落ちつかせるためにさまざまな思いをおしやり、閉めだすことではありません。

 

 

 

 

心の中にさまざまな思いが流れ込んできたら、私たちにはそれを止める方法はないのです。

 

 

 

 

私たちにできるのは、流れこめるだけのスペースを作って、その思いを客観的に観察し、手放すことだけです。

 

 

 

 

このとき、客観的に観察するための手段となり、集中しておだやかさを保つことを思い出させてくれるのが呼吸なのです。

 

 

 

 

こういう態度で取り組んでいけば、瞑想を行うたびに違った体験ができるようになります。

 

 

 

 

なんらかの強い思いや考えにとらわれることなく、比較的落ち着いてリラックスできるときもあれば、強烈な思いにとらわれてどうしようもないときもあります。

 

 

 

 

こんなときは、呼吸から注意が離れるたびに、注意をできるだけ引き戻そうとするだけで精いっぱいになります。

 

 

 

 

瞑想中にどんなにいろいろな思いがよぎっても、瞑想に支障をきたすことはありません。

 

 

 

 

一つひとつの瞬間の意識の領域に、どれだけスペースを作ることができるかが問題なのです。

 

 

 

 

 

ジョン・カバットジン著「マインドフルネスストレス低減法」より一部引用

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貫井投稿

 

 



 

 







ビル・モイヤーズ




キャンベルは千もの物語を語ることのできる人だった。




それは彼の特技のひとつだった。











ある国際的な宗教会議のために日本を訪れたキャンベルは、別のアメリカ代表であるニューヨーク州出身の社会哲学者が神道の司祭にこう言っているのを立ち聞きしたー




「私たちはたくさんの儀式に参加したし、あなたがたの神殿もずいぶん見せていただいたが、そのイデオロギーがどうもわからない。



あなた方がどういう神学を持っておられるのか、理解できないのです」




すると相手の日本人は、考えにふけるかのように長い間を置き、ゆっくりと首を左右に振ってからようやく言った。




「イデオロギーなどないと思います。私どもに神学はありません。私たちは踊るのです」




ジョーゼフ・キャンベルも同じだったー彼は天球の音楽に合わせて舞い踊っていたのだ。





ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ「神話の力」より一部引用















貫井投稿




 
 
 
 
 
死に際している人は、
非常に孤独です。
 
 
そして、
自分の気持ちを
言い表したいと
感じているのは、
この時ほど
切実なことはありません。
 
 
 

一人ひとりと大切に関わっているうちに、話したいとの瞬間を捉え、引き出してあげられることがあります。
 
 

すると不思議なことに、一週間も話す気力もなくなった状態の人が、どこから出てくるのかと思うような力を出して、今まで過ごしてきた一生を語り続けたり、気にかかることを言い残したりします。
 

 
話し終えると、安堵して永遠の眠りに入るのです。
 
 

佐藤初女
 

 
 
 
 
『いまを生きる言葉「森のイスキア」より』一部引用
 
 
 
 
 

 

 

 

崇高なもの、魂にふれるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにあります。

 

 

むしろ人生の本質は、そこにあるような気がします。



問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事項は、人生のほんの一部でしょう。



残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴みとるものです。

 

 

それまでは耐え続けなければならないのです。


 

 

 

箒木蓬生(ははきぎほうせい)





田んぼで耕うん機を動かす風景


 

 

 

解決できない問題に向かうために

 

 

ところてん式の進級と進学に輪をかけているのが、試験です。

 

 

この試験突破こそが、学習の最終目標と化してしまうと、たしなみ、素養としての教育ではなくなります。

 

 

問題解決のための学習、勉強になってしまうのです。

 

 

こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。

 

 

もっと端的に言えば「欲望」です。

 

 

教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。

 

 

物差しが基準ですから、そこから逸したさまざまな事項は、切り捨てられます。

 

 

何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。

 

 

そのほうが「解答」を手早く教えられるからです。

 

 

しかし、ここには、何かが決定的に抜け落ちています。

 

 

世の中には、そう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が、伝達されていないのです。

 

 

前述したように、むしろ人が生きていくうえでは、解決できる問題よりも解決できない問題のほうが、何倍も多いのです。

 

 

そこでは教える側も、教えられる側も、視野狭窄に陥ってしまっています。

 

 

無限の可能性を秘めているはずの教育が、ちっぽけなものになっていきます。

 

 

もう素養とか、たしなみでもなくなってしまいます。

 

 

この教育の場では、そもそも解決のできない問題など、眼中から消え去っています。

 

 

いや、たとえ解決できても、即答できないものは、教えの対象にはなりません。

 

 

教育者のほうが、教育の先に広がっている無限の可能性を忘れ去っているので、教育される側は、閉塞感ばかりを感じ取ってしまいがちです。

 

 

学習の面白さではなく、白々しさばかりを感じて、学習への興味を失うのです。

 

 

学べば学ぶほど、未知の世界が広がっていく。

 

 

学習すればするほど、その道がどこまでも続いているのがわかる。

 

 

あれが峠だと思って坂をのぼりつめても、またその後ろに、もうひとつ、高い山が見える。

 

 

そこで登るのをやめてもいいのですが、見たからにはあの峠に辿りついてみたい。

 

 

それが、人の心の常であり、学びの力でしょう。

 

 

つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄でしょう。

 

 

教育の現場が視野狭窄に陥っているため、親はそれ以上に視野が狭くなっています。

 

 

学校の課題だけを早くこなすように、子供に強制しがちです。

 

 

早くやりなさい、ぐずぐずしないで宿題を先にしなさい。これが口癖になります。

 

 

学習と言えば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点してしまいがちです。

 

 

世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子供に伝えるのさえも忘れてしまいます。

 

 

星の美しさ、朝日や夕日の荘厳さ、木々の芽吹きの季節のすこやかさ、花々の名前や木々を飛び交う鳥の姿と鳴き声も、まず大人の感受性はとらえられなくなっています。

 

 

子供に伝えられるはずがありません。

 

 

美術館で、ひとつの絵や彫刻を前にしたときの感動も、大人が関心を持っていなければ、子供が感動を覚えるはずがありません。

 

 

まして、音楽や美術には、問題設定もその解決もありません。

 

 

むしろ、解決できない宙ぶらりんの状態で、その芸術家が何とかして自分なりの仮の解答をさし出したのが芸術だからです。

 

 

芸術には、問題解決という課題が課せられていないので、学習がまだその本質を失っていません。

 

 

見た者、聞いた者は、何かを感じ、生の喜びを実感します。

 

 

人生の無限の深さに感動するのかもしれません。

 

 

詩もそうでしょう。

 

 

詩はそもそも、何かを解決するため、結着をつけるために書かれるものではありません。

 

 

音のつながり、意味の連関を味わい、感動するものです。

 

 

孔子の言行を収録した『論語』は、およそ三分の一が芸術論になっているそうです。

 

 

論じられているのは、絵画、詩、演劇、音楽で、真の人間になるためには、芸術を学ばなければならないと強調されていると言います。

 

 

おそらくそれは、わけの分からないもの、解決不能なものを尊び、注視し、興味をもって味わっていく態度を養成するためなのかもしれません。

 

 

崇高なもの、魂にふれるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにあります。

 

 

むしろ人生の本質は、そこにあるような気がします。

 

 

問題設定が可能で、解答がすぐに出るような事項は、人生のほんの一部でしょう。

 

 

残りの大部分は、わけが分からないまま、興味や尊敬の念を抱いて、生涯かけて何かを掴みとるものです。

 

 

それまでは耐え続けなければならないのです。

 

 

私が思い出すのは、第二章で述べたビオンの言葉です。

 

 

ネガティブ・ケイパビリティを持つには、記憶・理解・欲望が邪魔をするとビオンは断言します。

 

 

現代の教育は到達目標という欲望があるために、時間に追われながら、詰め込み記憶を奨励しつつ、とりあえず理解させようとします。

 

 

ネガティブ・ケイパビリティが育つべくもありません。

 


 

箒木蓬生(ははきぎほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』より一部引用

 

 


 

 

 

 

 

貫井投稿




 

 




暴力の神々がいる、慈悲の神々がいる、見えざる世界と見える世界とを結びつける神々がいる、それに、戦争のとき国王や国を守護するだけの神々もいる。


それらはみな、作用しているエネルギーの擬人化です。



ジョーゼフ・キャンベル






『神話の力』より一部引用



神秘体験を持ったことのある人は、みな、自己の五感ではとらえられない宇宙の次元があることを知っています。


『ウパ二シャッド』のひとつに何度も出てくる言葉があります。


「日没の、あるいは山の美しさの前で立ち止まり、『ああ』と嘆声を発する人は神性の中に入れる」


そういう参入の瞬間は、存在の不思議さと純粋な美しさとの深い認識を伴います。


自然の世界で生きている人は、毎日そういう瞬間を経験します。


そういう人々は人間の次元よりもはるかに偉大なものがあることを認識しています。


しかし、人間にはそういう経験を擬人化し、自然のさまざまな力を人間の形に置き換えて表現したがる傾向がありますね。


私たち西洋人の考えでは、神は宇宙のエネルギーと神秘の究極的な原因、ないし根源です。


ところが、東洋の大方の思考によれば、また原始人の考えからしても、神々は究極的には超人間的なエネルギーの顕現または伝達者です。


神が源泉なのではない。神はそのエネルギーを運ぶ者に過ぎない。そして、関係するあるいは伝達されるエネルギーの大きさや質というものが、その神の性格や役割を決定する。


暴力の神々がいる、慈悲の神々がいる、見えざる世界と見える世界とを結びつける神々がいる、それに、戦争のとき国王や国を守護するだけの神々もいる。


それらはみな、作用しているエネルギーの擬人化です。


しかし、エネルギーの究極的な根源はなぞのままです。