災害は起こらずにはいられない。
これはほんの始まりに過ぎない。
目を覚ますためにこの機会を使いなさい。
危険の超越の秘法を学ぶのだ。
その秘密というのは、もっとトータルに、もっと全身全霊で生き始めるということだ。
OSHO
災害のとき 目覚めの呼びかけ
この瞬間をどう使うかは、その人次第だ。
パニックに陥ることもできれば、気が違うことも有り得る。
恐怖にしびれ、涙にくれることもできる。
だがそれでは、自分の家族にも、自分の友達にも、或いは自分の愛する者にも、何の役にも立ちはしない。
それは自分にとっても何の役にも立たない。
この災害は、まさに少しでも知性のある人間なら、自分の時間をもっともっと瞑想にささげ始めることができるような状況をつくり出した。
何しろ本当に、明日が不確かなものだからだ。
それは常に不確かだったのだが、今となってはそれはこれまで以上に不確実だ。
この災害は、これから起こる一連の災害の始まりに過ぎないかもしれない。
原子力発電所は全部、決して本質的に安全なものではないからだ。
もし何かがまずく行ったら、そして今や我々は、一つの発電所がまずく行ってしまったことを知っているのだが、そうなったら彼らにはどんな力もない。
彼らはただ無力なのだ。
彼らは自分たちがつくり出しているエネルギーを制御することができない。
同じ災害がアメリカにも起こり得るし、日本でもドイツでも起こり得る。
焼失したこの発電所にすぐ並んで、同じ年齢の発電所が二つある。
その二つは、同じ時期に同じ設計で作られたものだ。
それには同じ欠陥があるに違いない。
直ちに二つ目の発電所が飛ぶという可能性はいくらでもある。
そして三つ目もそう遠いことではないだろう。
そしてそういう災害が、他の発電所で働いている何千 人という人々に、恐慌状態を引き起こすことも有り得る。
彼らは所謂その制御された態度というものを失うかもしれない。
彼らはただ熱に浮かされたような取り乱した状態で、これまで犯したこともないよな過ちを犯し始めるかもしれない。
しかもそれは、間違ったボタンを押しただけで起こりかねないことなのだ。
だが、人間はこれを大いなるときとして用いることもできる。
私たちはみんな、常に危険にさらされている。
あなた達もこの古いことわざを知っているだろう。
「誰がために鐘は鳴る、と尋ねることなかれ。
それは、常に汝がために鳴るものなり」と。
誰かが死ぬと、教会の鐘が鳴って、村中にそれを知らせる。
だが決して、その鐘が誰のために鳴っているのかを聞きに人をやってはいけない。
その鐘は常に、汝のために鳴っているのだというのだ。
たった今死んだのが誰だとしても、その死はすべて自分の死だ。
なぜなら人の死はすべて自分は永久にここにいるのではないということを思い出す縁(よすが)だからだ。
人の死はすべて、 目を覚ますための機会だ。
死がやって来る前に、死を超えたものを達成するために、生の機会を使いなさい。
心配しても仕方がない。
そんな事をしても、この瞬間を見逃すことになるだけ で、誰に役にも立ちはしないからだ。
しかも危険にさらされているのは、自分の両親、自分の友人、自分の愛するものだけではない。
全世界が危険にさらされているのだ。
それはただ、今日危険な目に合うものもあれば、
明日危険な目に合うものもあるだろう、が、いずれにせよ危険はある。
としたら、その危険の超越の秘法を学ぶのだ。
その秘密というのは、もっとトータルに、もっと全身全霊で生き始めるということだ。
もっと油断なく醒めていなさい。
そうすれば自分の中に、死の手を触れることのできないものを見つけることができる。
それこそが唯一の避難所、唯一の防衛、唯一の安全だ。
そしてもしあなた達が自分の友人、家族を助けたいと思うなら、その人たちにこの秘密を教えてあげなさい。
今度起こったことは、これから何度も何度も起こることになる。
原子炉か発電所は、非常に沢山あるし、それも技術ノウハウを知らない。
技術的にはまだ牛車の時代にいるような、ほとんど2、3千年も、遡ったような未開の国にまで設置されているからだ。
(中略)
災害は起こらずにはいられない。
これはほんの始まりに過ぎない。
目を覚ますためにこの機会を使いなさい。
貫井投稿