あなたが心配しているのは自然に押しつけたい自分の考えがあるからなのだ。
osho
【心配とは何だろう】
事実を受け容れられないということ、それが心配だ。
物事が現に起こっているのとは別のふうに起こって欲しい。
あなたが心配しているのは自然に押しつけたい自分の考えがあるからなのだ。
例えば、あなたは歳をとっていく。
あなたは心を悩ませる。
いつまでも若くいたい。
これが心配だ。
あなたは奥さんを愛している。
あなたが奥さんに依存しているのに、彼女の方は、あなたから離れて、別の男性のところへ行くことを考えている。
そこであなたは心を悩ませる。
心配だ。
自分はいったいどうなるのか。
あなたは奥さんを非常に頼りにしている。
彼女と一緒にいれば安心だ。
もし、彼女がいなくなってしまったら、もう安らぎはない。
彼女はあなたにとって妻であるだけでなく、あなたの母親、避難所でもあった。
そこに来れば、あなたは全世界から身を隠せた。
いつでも彼女を頼りにできた。
彼女はそこにいる。
例え全世界があなたに対立しても、彼女だけはあなたに対立することなく、慰めてくれた。
その人が離れようとしている。
自分はどうなるのか。
突然、あなたはパニックに陥り、心を悩ませる。
あなたは何と言っているのだろう。
その心配によって、あなたは何を言っているのか。
あなたは、この出来事は、自分には受け容れられない、これはこうあるべきではない、と言っているのだ。
あなたはそれとは全然違うふうにまさに反対を期待していた。
奥さんが永久に自分のものであることを望んでいた。
ところが、今やその人は去ろうとしている。
だが、あなたに何ができよう。
愛が消えた時、人に何ができよう。
どんな方法もない。
愛を強制することはできない。
妻に自分のもとに止まるように、強制することはできない。
たしかに、強制はできる――それがみんながやっていることだ――たしかに、強制はできる。
死んだ肉体はそこに残るだろう。
だが、生きた心はそこにない。
すると、それが自分の中で、緊張になる。
自然に逆らってできることは何ひとつない。
愛は開花だった。
今やその花はしおれてしまった。
そよ風ががあなたの家にやってきたが今では別の家に去ってしまった。
そういうものなのだ。
動き続け、変わり続ける。
物事の世界は流転そのものだ。
そこに何ひとつ永続しない。
期待しないことだ。
もし、諸行無常のこの世界に永続性を期待したら
必ず心配事を作り出すことになる。
あなたはこの愛が永遠のものであって欲しいと願う。
だがこの世では何ひとつ、永遠でありえない。
全てこの世に属するものは束の間のものだ。
これこそが物事の本性、「如」、タタターなのだ。
だから、今やあなたは愛が消えてしまったことを
知っている。
それは悲しいことだ。
それでいい、悲しみ受け入れなさい。
身が震えるのを感じる。
震えを受け容れなさい。
押し殺してはいけない。
泣きたかったら泣きなさい。
それを受け容れるのだ 。
無理してはいけない。
取り繕ってはいけない。
気にしてなどいないようなふりはしないしないことだ。
そんなことしても役には立たないからだ。
気に病んでいるものは気に病んでいるのだ。
妻が立ち去ろうとしているなら、立ち去ろうとしているのだ。
愛がもうないとしたら、それはもうないのだ。
事実を相手に戦うわけにはいかない。
それは受け入れなければならない。
もし、それを徐々に受け容れたら、絶えず、痛みを感じ、苦しむことになる。
そしてもしどんな不平もなく、理解しているが故に――仕方がないからではなく理解しているが故にそれを受け容れたら、それは「如」になる。
そうしたらもう気に病んでいない。
もうどんな問題もない。
なぜなら問題が持ち上がっていたのはその事実の為ではなく自分がその起こっていることを受け容れられなかったためだからだ。
あなたは事実に、自分の言うことを聞いて欲しかった。
いいかね、「生」があなたに従うことにはならない。
あなたが「生」に従わなければならない。
いやいやながらか、あるいは幸せそうにかはあなたの選択だ。
もし、いやいやながら従うなら、あなたは苦しむことになる。
もし、嬉しげに従うなら、あなたは一人の覚者になる、「生」は歓喜になる。
貫井投稿