出来事というのは起きてきます。
心に思い、問いかけるという積極的行為に基づいて。
我々の自我が「すること」に比べて、比較できないほど大きな成果が起こってきます。
津留晃一
起きてくること
ある日、あまり行くことのない渋谷にふらりと行きました。
「あっ、こっちへ行ってみよう」という思いが起こり、そちらへ向かって歩いていくと、目の前に大きな書店が現れました。
「こんなところに本屋さんがあったのか、時間もあることだし入ってみよう」とすっと中へ入りました。
精神世界コーナーを見つけ、私の目は書棚をゆっくりとスキャンニングし始めます。
ハッと一冊の本が目に留まりました。
さっとその本を手に取りパッと開いたところを一行読んだ時、「何だ、この本を買いに来たのか」とわかりました。
こうして私は「神との対話」という本と出会いました。
帰途の車中、座席に座るやいなや、もどかしく鞄から本を引っぱり出し読み始めました。
なんと素晴らしい本でしょう。
こんな本が形となって現れたことに感動が走りました。
この本を既に読まれた方もおそらく気づいていないと思いますが、初めに著者はこう書いています。
「この本は私が書いたというよりもむしろ起きてきた」と。
「まさしくこの本は起きてきた」と私もそう感じました。
私達一人一人が、知りたくて、知りたくて、自分の内側に問いを発し続けてきたその結果として、神から素晴らしい答えが返ってきたと感じました。
とても読みやすい平易な言葉で、しかも完成された本という形をとって・・・。
皆様方の熱心な問いかけが、この世界に、この本というとてつもない現実を生みだしてしまったと感じました。
我々一人ひとりの内側への問いかけが集合意識を動かし、答えという現象を作り出してしまったようです。
このように出来事というのは起きてきます。
心に思い、問いかけるという積極的行為に基づいて。
我々の自我が「すること」に比べて、比較できないほど大きな成果が起こってきます。
「すること」と「起きてくること」には格段の違いがあります。
とても比較にはなりません。
このことが解ってくると、その人の人生は変わってしまいます。
「すること」に意識が向かわなくなるからです。
「どうしよう」と思考を巡らし始めたとき、その思考の中で恐れが成長を始めることは何度か書きました。
ですから考えなければ恐れは現実化することはありません。
何か「する事」に意識の向かわない人には、「どうしよう」という発想がないわけです。
即ちあなたは「何かをしよう」としなくなるわけです。
「これが良いからこうしよう」という発想が止まってしまいます。
貫井投稿