MANDALA曼荼羅
「曼荼羅」と「太陽の塔」の関係性を描く。
岡本太郎は、初期の段階では「『太陽の塔』は『マンダラなのである』と書き記していた」。そもそも曼荼羅と言うのは「宇宙を三次元的に立体化したもの」。そして「それを上から眺めて平面図に落としたのがいわゆる曼荼羅図」(長野)であり、「世界の表れ、あるいは宇宙観」(唐澤)ともいえるのだ。
南方熊楠が著した「南方曼荼羅というのも、全てのものがつながり合い、絡み合いながら成り立っている世界観。それが直線的な関係ではなく、もっと『融通無碍』に浸透しあいながら繋がり合っているという関係をあらわしている」。
ちなみに「無碍(むげ)というのは、壁がないということ、全てが浸透しあっている事項」(唐澤)を示す。
一方で、太郎自身の「宇宙観」が現れているのが「太陽の塔」であるとも考えられる。「過去と現在と未来、あの塔にすべてが含まれている」。
「区別して分析するという意味では、壁を作るという事は大事だが、それだけだと行き詰まりが生じてしまう。
『融通無碍』に繋ぎ合わせるというのは、東洋的な考えであり、南方熊楠的な考え方。そうした時に、また違った思考体系や世界の捉え方が出てくる」
そんなメッセージを岡本太郎や南方熊楠は「太陽の塔」や「南方曼荼羅」を通じて発信しているのではないか」(唐澤)
「価値観の異なっている人々とどうやって共生していくのか、そういったようなところから『曼荼羅』と言う概念は生まれた。
南方熊楠は粘菌というものの中に『生きている曼荼羅』を見ている」(安藤)
「太郎はおそらくアメーバのようなものを『太陽の塔』の一番下の土台に置いた時に、同じようなビジョンを見ていたのではないかと思えて仕方がない。
『太陽の塔』は、塔であり、生命の樹であると同時に、それ自体が曼荼羅にならなければいけない。
ありとあらゆるもの、森羅万象がひとつに交じり合う。その中で人間は動物になり、植物になり、鉱物になり、そしてある場合には、聖なる樹木そのものとなり、天と地を繋ぐような存在に変身できる。それが太郎の中にも脈々と息づいている感覚じゃないかと私は思う」(安藤)
さらに「『トルマ』と言う神様へのお供物が『太陽の塔』の形をしている」(中沢)と、国内外の有識者によって同時に指摘されているのも興味深い。
「『太陽の塔』は供物であり、仏様に捧げられるものであるという意味合いがあるとすれば、とても面白い」(奥山)
「『太陽の塔』は我々の祖先、現在に生きている我々、未来に生きるであろう子どもたち、そういったすべての人類に対しての捧げ物だったんじゃないか」(唐澤)との言及もある。
曼荼羅図・・・宇宙を三次元的に立体化したものが曼荼羅であり、それを上から眺めて平面図に落とし込んだのが、いわゆる曼荼羅図である。岡本太郎は太陽の塔というのは曼荼羅なんだと、初期の段階で書き残している。
無碍(むげ)・・・妨げがない。壁がないと言うこと。全てが浸透しあっている事項。
華厳経・・・大乗経典のひとつで、ひとつの仏が宇宙全体に遍満しており、宇宙に存在するありとあらゆるものの中に入りこんでいる説く経典。
トルマ・・・太陽神への供物、捧げ物、人間や動物の生贄などを神への捧げ物をしていたことをやめ、麦こがしやバターで作ったこのトルマを供物としていった。太陽の塔とどことなく形が似ている
長野泰彦(ながのやすひこ)
チベット言語学者
唐澤太輔(からさわたいすけ)
龍谷大学世界仏教文化研究センター博士研究員
安藤礼二(あんどうれいじ)
文芸批評家、多摩美術大学教授
中沢新一(なかざわしんいち)
思想家、人類学者
奥山直司(おくやまなおじ)
密教学者、チベット仏教学者
映画『太陽の塔』パンフレットより一部引用以上
貫井投稿