ORIGINS起源
「太陽の塔」の誕生に大いなる影響を与えたと考えられる、1万年も続いた縄文時代の土器や狩猟採集社会と太郎との出会い、そしてその影響が色濃く残る沖縄やアイヌの文化について、1951年、東京国立博物館で縄文土器と出会った太郎は、土器を一目見るなり「これはなんだ!」と叫んだと言う。
「作った人たちは、いったい何を考えていたんだろう。何がそこに隠されているんだろう。と、すごく惹かれていたんです」(赤坂)
縄文土器には「狩猟民族の狩りのプロセスにおける精神の動きが反映されて」おり、「獲物を獲るときの高揚感が、縄文土器のうねるような曲線に現れている」(春原)と言う。
「我々日本人はどこかで、内なる未開人とか、内なる原始人を飼っている感覚がある。太郎はそのことに自覚的だった」 「蝦夷とかエゾと呼ばれた人たちや、その向こうのアイヌの人たちが、縄文文化と繋がっているという予感は、当然のように持っていたと思う」(赤坂)
太郎は日本国内を旅する中で、「東北の田舎の爺さん婆さんや、古い祭礼の写真を撮ったりするようになってきた」。「いわゆる成長発展の世界とは違う世界の中で、人間は何を考え、何を望み、何を夢見ていたかということを、岡本太郎は取り出したかったのだ」(中沢)
岩手県の花巻に伝わる「鹿踊り(ししおどり)を目にした太郎が「一緒になって踊りながらシャッターを押した」写真が残されている。
「『鹿踊り』と言う芸能の起源には、人と獣たちとむき出しの形で向かい合い、殺し殺されるという、命のやりとりをしていた時代の記憶がある」(赤坂)
「北海道のイヨマンテを行う人たちは、熊を仕留めたときに、その熊に赤ちゃんがいると、村に連れてきて、女性たちが乳をやりながら大切に育てる。そしてある時期になると殺してあの世に送り返す。イヨマンテの祭りの中に、太郎は「鹿踊り」にも通じるような、人と野生というものが向かい合って、交感する姿を見出していた」(赤坂)
「1960年前後に太郎は沖縄に行って、沖縄の古い習俗にものすごく感動した。ひとつの人間世界が、『どのように生きるということを紡いでいくのか』の実相を直感的に見た。みんなが『恥ずかしい』というものを『素晴らしい』と言って、古い祭りの習慣や、いろんなものを掘り起こした」(西谷)「『もっと激しい、もっといきいきとした文化を、いまあなたたちが創らなかったら嘘だ』と、太郎は挑発しながら励ましていた」(赤坂)
赤坂憲雄(あかさかのりお)
民俗学者、学習院大学教授
春原史寛(すのはらふみひろ)
美術史研究者、群馬大学准教授※撮影当時
中沢新一(なかざわしんいち)
思想家、人類学者
西谷修(にしたにおさむ)
フランス思想・哲学者
映画『太陽の塔』パンフレットより一部引用以上