あと数時間で、2008年が終わります。みなさんにとってこの一年は、どういう一年でしたか。
結局私にとって今年は、とても大事な人を失った年でした。その喪失感から十分立ち直れず、なぜか逃げ回っていたような、そんな一年だった気がします。
あえて空気読まずに、10大ニュースなんかをやってきましたが、この件だけは特別。最初から今晩はこの話をしようと思って、空けておりました。
Hさんのこと、です。宮城UPの事務所には、ドラちゃんの貯金箱がありました。Hさんがおいたものです。
私たち宮城UPは、今年、かけがえのない方を失いました。そのことはやはり、ネットに書きとどめておくべきだと思い、自分の想いも含めて、ここに記します。
私がHさんにはじめてお会いしたのは、おそらく99年の秋ごろだったと思います。大学院での修行のかたわら、障害のある人向けのパソボラをお手伝いすることになった私は、障害者の事を勉強しようと思って、Webか何かで見た東北大学病院のリハの公開講習を受講していました。
そこで、Hさんにはじめてお会いしたはずです。はず、というのは自分ではよくおぼえていなくて、後でHさんに「あのとき会った」と言われていたからです。
再開してのち、「ずいぶん変わったよね~。特に頭皮が。」と言われ、まだ心はナイーブな少年のままだったので、傷つけられたものでした。その後、自分でギャグにできるくらい鍛えられましたが。
当時私は、3つぐらいのパソボラをお手伝いしていたのですが、そのうちの一つで定期的に勉強会を開いていました。時々、Hさんもいらしていて、それは記憶しています。
その後数年間は、ほとんど交わらなかったのですが、次にお会いしたのが2002年、太白区役所だったと思います。私はある美女の運転手&車いすを押すボラとして「太白区地域生活支援ネットワーク会議」(ビートスイッチの前身)の勉強会に参加し、そこで障害福祉係長(現ビート代表)にリクルートされてIT支援部会のメンバーになりましたが、同じくHさんも、そこで引き込まれていました。
そのIT支援部会が、現在の宮城UPの元になったのですから、Hさんと私は、宮城UPが芽生えた瞬間を共有していたことになります。
まあ、私が部会長で、当時からHさんを引きずり回していたので、「こいつに巻き込まれた」と思っていらっしゃったのでしょうけど。
思い出すのは2005年1月、マイクロソフトの担当者を招いてのシンポジウムです。宮城UPを引き受けられるかどうかの試験的な意味合いの場でしたが、希な大雪に見舞われ参加者は少ないし、MSを招いての懇親会は代表と事務局長が雪で帰っちゃうしで、めちゃくちゃだったのですが、Hさんは自分が片マヒで歩くのも大変なのに、最後まで付き合ってくれました。その夜、大失敗を悔いる私に、電話で励まして下さったのを、今でも鮮明に覚えています。
(その2)に続きます。
結局私にとって今年は、とても大事な人を失った年でした。その喪失感から十分立ち直れず、なぜか逃げ回っていたような、そんな一年だった気がします。
あえて空気読まずに、10大ニュースなんかをやってきましたが、この件だけは特別。最初から今晩はこの話をしようと思って、空けておりました。
Hさんのこと、です。宮城UPの事務所には、ドラちゃんの貯金箱がありました。Hさんがおいたものです。
私たち宮城UPは、今年、かけがえのない方を失いました。そのことはやはり、ネットに書きとどめておくべきだと思い、自分の想いも含めて、ここに記します。私がHさんにはじめてお会いしたのは、おそらく99年の秋ごろだったと思います。大学院での修行のかたわら、障害のある人向けのパソボラをお手伝いすることになった私は、障害者の事を勉強しようと思って、Webか何かで見た東北大学病院のリハの公開講習を受講していました。
そこで、Hさんにはじめてお会いしたはずです。はず、というのは自分ではよくおぼえていなくて、後でHさんに「あのとき会った」と言われていたからです。
再開してのち、「ずいぶん変わったよね~。特に頭皮が。」と言われ、まだ心はナイーブな少年のままだったので、傷つけられたものでした。その後、自分でギャグにできるくらい鍛えられましたが。当時私は、3つぐらいのパソボラをお手伝いしていたのですが、そのうちの一つで定期的に勉強会を開いていました。時々、Hさんもいらしていて、それは記憶しています。
その後数年間は、ほとんど交わらなかったのですが、次にお会いしたのが2002年、太白区役所だったと思います。私はある美女の運転手&車いすを押すボラとして「太白区地域生活支援ネットワーク会議」(ビートスイッチの前身)の勉強会に参加し、そこで障害福祉係長(現ビート代表)にリクルートされてIT支援部会のメンバーになりましたが、同じくHさんも、そこで引き込まれていました。
そのIT支援部会が、現在の宮城UPの元になったのですから、Hさんと私は、宮城UPが芽生えた瞬間を共有していたことになります。
まあ、私が部会長で、当時からHさんを引きずり回していたので、「こいつに巻き込まれた」と思っていらっしゃったのでしょうけど。思い出すのは2005年1月、マイクロソフトの担当者を招いてのシンポジウムです。宮城UPを引き受けられるかどうかの試験的な意味合いの場でしたが、希な大雪に見舞われ参加者は少ないし、MSを招いての懇親会は代表と事務局長が雪で帰っちゃうしで、めちゃくちゃだったのですが、Hさんは自分が片マヒで歩くのも大変なのに、最後まで付き合ってくれました。その夜、大失敗を悔いる私に、電話で励まして下さったのを、今でも鮮明に覚えています。
(その2)に続きます。

「宮城UP通信・新連載はじまる。その名も『アキバ買い出し帰港』」
という方に。

。デザイン重視なので、固定がとてもしにくい。スパナ片手に大苦戦でした。一番マズいのは、上下前後には超強いのに、左右の可動域がないこと。一般向けのアームは前後に強いんですよね。奥に仕舞ってあるモニタを出してくるイメージ。でもベッドサイド設置に必要なのは横の動き。自分で引っ張ってきて使うわけにいかないから。やっぱ、カッコいいだけじゃだめだなあ。






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で、ロタウィルスは病院で下痢止めをもらって直ったのですが、