◆NHK 映像の世紀スペシャル「ビートルズとロックの革命」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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▼写真AC:Tom Shimizuさん提供のフリー素材
「イギリス-リバプール-アルバートドック-錨」


1960年、イギリスの港町から彗星のように現れた4人組。
全世界レコードの売り上げは10億枚。
この記録はいまだに破られていない。
1000回にも及ぶライブを行い、行く先々で熱狂を巻き起こした。
彼らの音楽は冷戦の壁を越え、若者に火をつけた。

第二次世界大戦のイギリスの港町・リバプール。
ナチスドイツによる激しい空襲にさらされた。
1940年、レノンが生まれた。
両親が離婚し、叔母の家に引き取られた。
ポールマッカートニーの親も労働者階級。
14歳で母を失っていた。
悲しみから逃れるのが曲作りだった。
面識ない2人が、共通の音楽・ロックンロールに夢中になった。
港町のリバプールにはアメリカの最新のレコードが入って来た。

黒人ロックンローラーのリトル・リチャードに衝撃を受けた二人は進む道を決めた。

1957年7月、2人の運命の出会い。
地元リバプールの教会のイベントで、ジョンはエルビス・プレスリーのカバーを披露した。
ポールは会場に来ていて、ジョンの荒削りながらパワフルなボーカルを見た。
二人は大好きな音楽の話で、盛り上がった。
ジョンがピアノを弾いてボールが即興で『のっぽのサリー』を歌った。
ジョンは、ポールの完成度に驚き、ボールを仲間に入れグループのレベルを上げる決断をした。
のちにジョージ・ハリスンも加入。
彼らにとってラッキーだったのは、1960年をもって、兵役が廃止されたこと。
自由と60年台が味方についていた。

3人は西ドイツのハンブルグに向かい、武者修行の日々を送った。
毎日8時間演奏し、バンドとしての技術も向上した。

ブライアン・エプスタインはレコード店を経営していた。
客からビートルズのレコードはないのか聞かれ、ビートルズのパフォーマンスがあるライブハウスに足を運び、衝撃を受けた。
そして自らマネージャーを買って出た。
1962年、リンゴスターが加入し4人が揃った。

エプスタインは、彼らにスーツを着せて、都会の若者へとイメージチェンジをした。
1曲終わるごとに深くお辞儀をすることを提案し、
ステージ上での酒とタバコは辞めさせ、これが功を奏し、幅広い層からの支持を得た。
1962年レコードデビューで、彼らの快進撃が始まる。
熱狂的に騒いだのは、若い女性たちだった。
ビートルマニア現象がヨーロッパ中に広がった。
さらに画期的なのは、自分たちで作詞作曲をこなしたことだった。
それまでは曲作りは作家がする分業制が常識だった。
憧れる黒人音楽のように、自分たちの言葉でリアリティ豊かな愛の歌を歌った。
それが若者たちの気持ちを代弁することになった。
ビートルズの後を追う若者たちが次々とヒットした。
彼らから発せられる音楽は、階級社会まで変えてしまった。
彼らは労働者階級出身だったが、彼らのユーモアと音楽で、軽やかに階級の壁を越えた。
レノンは、観客である大勢の上流階級の人に向け、ユーモアなスピーチをした。

大きな地殻変動が起ころうとしていた。
サッカー・リバプールFCのスタジアム。
観客が皆でビートルズの曲を歌い、ホームチームを応援した。
労働者階級の人たちはビートルズに背中を押され、新しい文化を産み始めた。
ミニスカートの火付け役ツィギーは、ビートルズのおかげだとインタビューに答えた。

1964年、ビートルズのブームがアメリカに上陸した。
3000人の若者が空港で彼らを出迎えた。
2月『エド・サリバンショー』視聴率40%の全米人気番組。
7000万人がテレビに釘付けになり、ビートルズが一夜にして、全米でスターになった。
テレビを見ていたティーンネイジャーは、髪の毛を伸ばしギターを弾こうと決意した。

1978年、映画『抱きしめたい』
当時の若手監督ロバート・ゼメキスはビートルズに熱狂する少女たちを生き生きと描いた。

エドサリバンショーの放送1週間後、のちのポクシンク世界王者のモハメド・アリと対談。
白人と黒人とがじゃれあう姿が、テレビに衝撃を与えた。
彼らは、黒人ミュージシャンへの敬意を、ことあることに証明していた。
フロリダ州ジャクソンビルでのコンサート。
フロリダ州は人種差別が酷いところだった。
人種隔離があるようなら、コンサートを行わない、と言った。
白人と黒人が入り混じる2万3000人が見守った。
その後、人種隔離政策が撤廃された。

1964年、アルゼンチン
ビートルズ初の南米訪問と報じられた。
登場したのは、コピーバンド「アメリカン・ビートルズ」だった。
日本では若者が「リバプール・ビートルズ」に熱狂した。
日比谷で彼らが出る映画が上映され、女性を中心に大熱狂。

ソ連ではビートルズを自由に聞くことができなかった。
西側のロックは禁じられていた。
ルクセンブルクのラジオ局がビートルズを出演させ、東側に流した
ソ連の若者たちがラジオにかじりついた。

1966年6月、ビートルズが日本にやって来た。
武道館を使うことに、右翼団体が激しく抗議した。
4人はホテルから出ることを許されなかった。

翌年のアメリカ公演でボイコット騒動。
ジョンがキリストを侮辱したとして、不買運動となった。
殺害予告まで出たので、ジョンは釈明に追われた。
4人が人前に出て演奏する意欲を奪って行った。
1966年、サンフランシスコ公演を最後のコンサートにしようと決めた。

ボールはケニアで休暇を過ごした。
4人はライブから離れて、自由な時間を満喫していた。
再び人前に現した時、進化を遂げていた。
世界同時生中継番組『アワ・ワールド』に出演。
メンバーはライブに嫌気がさしていて、連日スタジオにこもり、曲作りに没頭していた。

1967年6月1日、活動休止後発売された『サージェントぺパーツ・・・』は革命的だった。
アルバムの裏には歌詞が印刷された。
これまで、前例のないことだった。
揃いのスーツを脱ぎ捨て、髭を伸ばしアイドルでないことを告げ、サウンドは古今東西の文化を取り入れていた。

『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』のレコーディングには、40人のオーケストラを率い、複雑で高度な音楽表現を満載した曲と言われている。

BBCから、アルバム収録曲の1つが放送禁止を受けてしまう。
歌詞に「ターンオン」という語句が入ったため。
『ルーシー・イン・ザ・スカイ』のタイトルの頭文字が薬物LSDを示していると疑いをかけられた。
実際には違法のLSDを使用していた。

1967年8月27日、マネージャーのブライアン・エプスタインが薬物の過剰摂取で死去。
まだ35歳だった。
ポール・マッカートニーがまとめ役を買ってでた。

映画『マジカル・ミステリー・ツアー』は、「ビートルズ初めての失敗作」として、酷評された。
4人は関係がギクシャクし始めた。
4人はインドを訪れ、ドラッグに変わるものを探しにインド式の瞑想を体験した。

ジョンは、前衛芸術家のオノヨーコと付き合い、ビートルズから距離を置き始め、前妻シンシアと離婚した。
シンシアとの子のジュリアンはジョンよりもボールのそばにいた。
精神的に不安定な状態にあったジュリアン・レノンを慰めるためにマッカートニーが書いたバラード『ヘイジュード』が完成した。

エストニアの若者イヴォ・リンナ。
1968年、ソ連が禁じていた『ヘイ・ジュード』を民族の言葉エストニア語でカバーし、愛国心を訴え、その後国民的歌手となった。
チェコスロバキアの女性シンガー:マルタ・ラクビショヴァもヘイジュードをカバーし、独自の詩をつけ、東側の影響もあり音楽界から追放され、レコードは発売禁止となった。

ビートルズが解散。
8月22日4人で撮った最後の写真。
ビートルズの活動期間は7年7ヶ月だった。

革命はまだ終わっていなかった。
85年ソ連の大統領に就任したゴルバチョフは、ビートルズのコピーバンドの演奏を認めた。
1988年エストニアでライブ
イヴォ・リンナの歌は「歌う革命」と言われ、ソ連崩壊を導く役割を担った。
チェコスロバキアでも革命が起こり、マルタ・ラクビショヴァが姿を現した。

再結成の噂がたびたび流れては消えていた。
1980年にジョン・レノン死去
2001年にジョージ・ハリスン死去
スティーブ・ジョブズが、iPod発表時にビートルズの曲を流した。

2023年6月、「ビートルズ・最後の新曲」が発表された。
『ナウ・アンド・ゼン』
1970年代にジョン・レノンが作成したデモテープから、最新技術を用いてジョンの歌声を抽出して新たに作り上げたもの。
1969年の『ジョンとヨーコのバラード』以来、54年振りの全英シングルチャート1位となりました。


「ビートルズ・最後の新曲」の記事はこちら(2023年11月12日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12828258051.html

では、明日。