◆筒美京平からの贈り物 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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シングル総売上枚数・歴代作曲家第1位
75,600,000枚
どれも人々が気持ちを寄せる時代のアンセム(賛美歌)だった。

今回筒美と仕事を共にしてきた仲間たちが、ほとんど語られてこなかった創作の舞台裏を明かしてくれた。

筒美京平の仕事を身近に見続けてきた盟友でもある作詞家・松本隆。
筒美と2人で作り出した曲はおよそ400にのぼる。
松本はSNS上に追悼の言葉を送った。
「とりあえず、僕の言葉の羽というか翼に乗せて、もう(京平さんを)送らなきゃ行けないと思って、頭で書いたら駄目だなと思って、心で書こうと、とにかく本当の気持ちを書いたほうがいいだろうなと思って」
「兄と弟であり、ピッチャーとキャッチャーでもあり、そして別れなければならない日が来ると、右半身と左半身に裂かれるようだ。僕が京平さんからもらったのは、ありったけの愛。彼ほど僕の言葉を愛してくれた人はいない。ありがとう、京平さん」

作曲家・筒美京平が登場したのは、日本にビートルズが来日した1966年。
目指したものは、アメリカのポップスを歌謡曲に変換するというものだった。

筒美京平作品の編曲家・草野浩二は語る。
「コピーではなく、それを取り入れて筒美京平流に料理したところに、京平さんのヒットの秘密があった」
デビューから2年後、筒美は初のミリオンヒットを手にすることになる。
当時、歌謡曲の革命と言われた筒美のサウンド。
管弦楽器を贅沢に用いることで生まれる、ゴージャスで新しい響きに日本中が酔いしれた。
ヒット曲を生み出す、それは筒美京平自身が自らに課し続けた筒美京平のおきてだった。
メディアを遠ざけて来た筒美が、晩年その信念を親交があった音楽家に語った。
元ピチカート・ファイブ・小西康陽「筒美京平って、何人もいるんじゃないかと」
筒美「黒子みたいにいるべきだと。自分の持っている音楽を表明していくって感じが全然ないわけ。だからヒットすることがベスト。それに殉じる」

70年代に入ると、筒美は次々とヒットを飛ばし、日本の作曲家の頂点に上り詰めた。
その楽曲には、歌謡曲の常識を覆す様々な仕掛けが隠されていた。

1. 筒美京平・ヒットの法則
パンチのあるイントロ
イントロへの執着は、終生続くこととなる。

ヒットを生むために筒美が仕掛けたこだわりは、歌詞と歌詞との行間の音作りにも注がれた。
筒美作品の編曲家・船山基紀は語った。
「色んな歌の合間を飽きさせないように、次から次へとアイディアを繰り出しなさい。1曲に10曲くらいのアイデアを詰め込まないと、先生のOKにならない」

2. 筒美京平・ヒットの法則
歌詞の間を音で埋め尽くす
イントロや行間、編曲家が行う音作りにも手を加えることで、独特なサウンドを作り上げていった。

1973年、筒美は共に日本の音楽シーンを変えることになる1人の青年と電撃的な出会いを果たした。
ジーパンにTシャツを羽織った1人の青年・24歳の松本隆。
「国立競技場のそばの彼の仕事場、億ションです。こんなに広い居間って見たことありませんでした」
筒美京平 33歳、松本隆 24歳。
この時2人は作曲家と作詞家として、初めてタッグを組むことになっていた。

松本は日本のロックを確立したとされるロックバンド・はっぴいえんどの元メンバー。
バンド解散後、作詞家の道を歩き始めた松本に、声をかけたのは筒美だった。
しかし、松本は筒美から「趣味で音楽出来ていいわね」と声をかけられた。
それを聞いた松本は「趣味で音楽って、作っちゃいけないのかな?僕は趣味でしか音楽作ったことなかったから」と感じていた。
「はっぴいえんどは、売れ行き無視してますから」

70年代前半音楽界には、新しい感覚の才能が次々に登場していた。
荒井由実や井上陽水。
彼らは自ら作詞作曲を行い、時代を生きる“若者の心情”を歌った。
船山基紀「世の中にシンガーソングライターとか、フォークソングが多くなって来て、そうすると京平先生はその時代を捉えるために、その時代のアレンジャー(編曲家)だったり、ミュージシャンだったりを起用していく。モチベーションをくすぐるような、香りを感じたかったんですよね」

松本「筒美京平って言う歌謡界の巨人と、どういう共同作業をしたらこれからの音楽を変えていけるんだと・・・」
自由を求める若き作詞家と、ヒットにこだわる職人作曲家の2人。
2人が手掛けることになったのが、デビューを控えた1人の女性アイドル・太田裕美。
2人はすぐに3曲を出したが、ヒットにつながらなかった。
吉田拓郎からは「お前なんか売れるわけないよ」って言われ、松本は「今にみてろよ」って、心で呟いた。

松本はふとひらめいたアイデアを筒美に持ちかけた。
これまで、作曲の後に行うことが慣例だった作詞を、作曲の前に行いたいと訴えた。
松本「ちょっと、メロディに(詞を)付けてるだけだと、世界が変わらない。詞を先に書くやり方、それははっぴいえんどのやり方。ちょっと冒険させてくれって」
3日後、松本が書き上げた歌は、後に2人を代表するヒット曲となる『木綿のハンカチーフ』だった。
詞は、都会での人生を始める僕と、故郷に残った私のすれ違いが、それぞれの一人称で語られる。
筒美に向けて松本が書いた文学的な詞の構造は、それまでの歌謡曲には見られないものだった。
しかも詞は4番まであり、型破りな長さだった。
松本「(筒美との)戦いの始まりです。世代間戦争でもあるし、メインストリームと、自分がいたサブカルチャーとの衝突ですね」
松本の詞を受け取った日、百戦錬磨の作曲家は頭を抱えた。
「京平さんはふてくされながら、詞が長すぎるから曲がつけられないと、言いたくて(ディレクターの)白川さんをつかまえようと思ったんだけど、なかなかつかまえられなくて、午前3時くらいに諦めて曲を作り出したらしいの。で、曲を作り出したら、すっごいいいのが出来ちゃった」
筒美は創作の苦労を一切語らなかった代わりに、この曲の大ヒットを予言したと言う。
その予言は現実のものとなり、86万枚を売り上げる大ヒットとなった。

音楽プロデューサーの本間昭光は、この曲を魅力をある意外なものに例えた。
「極上の味噌ラーメン。ラーメンはもともと中国の味付け。香港や上海に行ったら、ちょっと香りが日本人には強い? でもそこで誰が考えたのか、日本のみそとラーメンで、味噌ラーメンが出来上がった。これが一番の発見。まさに洋楽の美味しいところと、日本の歴史的な部分を掛け合わせて作ったもの」
邦楽と洋楽の融合、それは冒頭の1行目に象徴的に表現されている。
5つの音階だけでメロディを作る「ペンタトニック」という手法で成り立っている。
この5つの音階だけでメロディを作るのは、日本の歌謡曲などに見られる古典的な音使いだった。
「演歌チックなものを持っていたりする、クサい音階」
しかし、筒美はこの日本的な音階メロディに、ある洋楽的エッセンスを加えることで、誰も聴いたことのない新しさを生み出した。
譜面に記された「Amaj7」
メロディの主旋律を引き立たせるための、複数の音の組み合わせである。
当時、あの日本的メロディには、3つの音からなるAのコードを当てるのが一般的だった。
しかし筒美はそれにもう1音加えたAメジャーセブンスという歌謡曲ではあまり使われていなかったコードを取り入れた。
この小さな音の差による、日本的なメロディと洋楽のエッセンスの遭遇が、多くの人を捉えたのだと言う。
「このわずかな動きというものが、思いつくようで思いつかない」
聴くものを飽きさせない、筒美の工夫。
その工夫は、他にも随所に散りばめられていた。
「一瞬差し込むだけで、楽曲が光り輝く。
一瞬の差し込みこそがセンスの象徴」
かつてない構造を持った松本の詞と筒美のメロディの融合が、日本の歌謡曲の流れを大きく変えた。

アイドル全盛となった80年代。
その時代を作ったのも筒美の音楽だった。
歌手としての力量が異なるあらゆるアイドルの楽曲も引き受け、次々とヒットさせていった。

近藤真彦「失礼ですけど(筒美京平の)名前までは僕は知らなくて、当日ジャニー喜多川さんに、筒美京平先生というとても大変な先生に会いに行くと言われて、曲を色々聴かされ、あのブルーライトヨコハマを作った、と言われ、そうなんですか、と言ったのを覚えています。その先生にピーンとピアノのコードを押されて、これと同じ音を声で出してみな、と言われました」
それまで歌の経験が全く無かった近藤真彦を自宅に招き、度々レッスンをした筒美は、歌声にじっと耳を澄ませていた。
「筒美先生には、ご心配かけたと思うんですけど、近藤君は近藤君の思うように、近藤君らしさで歌うのがあなたの曲。器用に歌おうとしちゃダメだ、と教わりました。きっとそれ以上のことが出来ないだろうなと思っていたんじゃないですか」と笑った。
『スニーカーぶるーす』は、筒美が作曲、松本が作詞をしたデビュー曲。
新人のデビュー曲として、史上初めて週間チャートの1位を獲得、ミリオンセラーとなった。
筒美は、歌手の経験が少ないアイドルの楽曲には、いつも以上に多彩な音を付けるようにしていた。
歌詞の間に差し込まれるギターやコーラスが歌を補い、豊かな表情を持つ楽曲へと変貌させた。

編曲家・船山基紀「ものの見事に一人一人に全く違う曲を持ってきて、絶対にかぶらないことをお考えになる。それを音で本当に表現なさるので、すごいなと思いました」
近藤真彦「マッチらしさ=やんちゃらしさみたいなものをきっと、そこで行かせたらみたいな話があったと思います。筒美京平、筒美京平、筒美京平で行って全部ヒットしたので、本当に感謝しかないです」

ヒットに殉じる、その揺るぎない信念が、作曲家としての筒美の矜持だった。
松本「作詞家とか作曲家って、そんなに責任負わなくていいんじゃない。いつも1位取らなくていいと思う。それは彼の持論と全然違うんだけれども。彼は選んで売れるというのを、自分に課してやっている
ヒット曲作りをプライドをかけてやっているから、筒美京平は面白い。売れなかったら、自分の作品としては失格みたいな」

1980年代、コンピュータやシンセサイザーなどの技術革新によって、音楽の潮流が変わろうとしていた。
本間昭光「新しい音楽が生まれるときは、必ず新しい楽器の発展が絡んでいる。そういった時代の流れを筒美先生は見逃さなかった」
船山基紀「その頃、とても最先端だったニューウェーブ・ロックのサウンドにしたい、ということを先生がおっしゃって。ファッション、サウンド、その格好良さをバンドでやってみたい。C-C-Bっていうのやる、っていう話が来て」
ドラマーがボーカルを担う独自のスタイルで一世を風靡したCCB。
シンセサイザーや電子ドラムなどのデジタル機器をいち早く取り入れて、活躍したロックバンド。
しかし、筒美が出会った頃はまだ無名。
次売れなければ解散はやむ無しという状態だった。

歌謡曲で一時代を築き上げていた筒美は、この若者たちと新たな音楽を作ろうと考えた。
松本隆「京平さんはロックバンドを自分が育てる、やりたかったことなんじゃない?
六本木で打ち合わせをして、髪の毛が青だったり、赤だったりして、一緒のテーブルにいるのは恥ずかしいなと思ったくらい派手な人たちでさ。でもね、音楽的にはすごくしっかりしている」
筒美が注目したのは、当時メインボーカルを務めることはなかったドラムの声。
透明感のあるハイトーンの声の持ち主・笠浩二だった。
笠の声ならデジタル技術に飾られたサウンドにも埋もれることはないと、筒美は直感した。
船山基紀「京平先生は、アーチストの声質をとても重要視される。ただきれいなだけじゃなくて、何かちょっと引っ掛かりのある声。京平先生の中の感覚に、笠くんの声がとても響いたんだと思います」

筒美は笠のために、常識より2音高いキーでメロディを作った。
ドラマーを主軸とする異例の試みに、周囲は懐疑的だった。
笠「なんで俺を(ボーカルに)選んだの?自分自身、自信が無い人間だった。とても、自信を持ってドラムを叩いたりとか、歌ったり、全然出来なくて。メンバーは、自分が本当はセンターなのに、なんで笠がメインを取るの? とても板挟みみたいになっちゃって。地獄だった。ドラムだけだったらいいのに。泣きながら帰ったこともあった」

レコーディングには筒美も立ち会った。
しかしハプニングが起こった。
笠が勝手にメロディーラインを変えてしまった。
そこは結構メンバーに責められた。
「お前違うよ、そこは上じゃなくて下」
メロディに手を加えた笠に対し、筒美がかけたのは意外な言葉だった。
「うん、これでいいよ。自分が歌いやすいところで歌っているんだから、いい。これが君のメロデイなんだから」
44歳になっていた筒美。
ヒット曲を生み出し続けるためには、若者の感性や才能が必要だと考えていた。
「ロマンチックが止まらない」のイントロに関しても、筒美は違うものを考えていた。
ただ、笠が「これはすごい、これは売れる」と言い出したから、「笠君がいいっていうんだから、これでいい」と手を加えなかった。

本間昭光「若い人の感覚の方が、時代に合っているんだよね。筒美京平と若手のミックスみたいなものが出来上がってきた。新しい才能と一緒に新しい音楽を作りたいって言うのが、当時の先生の考え方だと思うんですよね」
完成した曲『ロマンチックが止まらない』筒美と若い才能が融合した名曲の誕生だった。
51.6万枚を売り上げたこの曲は、80年代を象徴する歌の一つになった。
解散間際にまで追い込まれていたCCBは、筒美との出会いによって、「紅白歌合戦」への出場も果たした。
笠「筒美先生は自分たちを、日本のロックバンド、日本人が歌って、日本人が演奏するロックバンドを作ったから、って伝えられたりすると、めちゃめちゃ嬉しかった」
この4年後CCBは解散、笠は1人で音楽を続けた。
しかしヒットに恵まれず、心身ともに病み、ギリギリまで追い詰められた。
どん底の笠を救ったのは、一本のネクタイ。
紅白歌合戦出場が決まった時に、筒美から贈られたものだった。
「筒美先生が俺のこと、いいよって言ってくれた」とこれを見て思い出した。

1979年筒美京平の最大のヒットとなった、ジュディ・オングの『魅せられて』
「サビの中で、裏声にするか、地声にするか、うーんとずっとお考えになってました。今になってもつま先立って緊張して歌ってます。さなぎから脱皮するかのように、筒美先生は私に、歌手としての目覚めをくれた恩師だと思います」
日本の歌謡界は、筒美と共に進化したと言っても過言ではなかった。

編曲家・萩田光雄「日本の音楽シーンの2歩も3歩も先を行っている。“歌は世につれ、世は歌につれ”って言葉がありますけど、まさに“世は筒美京平の歌につれ”、だったんじゃ無いですか」

しかし90年代、音楽シーンは目まぐるしく変化していく。
時代の早さに戸惑う筒美の肉声が残されていた。
「びっくりした。我々みたいに職業作家の名前がベスト10からばっと消えた。本当にあっという間に消えた。日本の文化とか、そういうものが変わり目に来ていたんだろうね。時代がいつでも先に行って、時代が作家を選んでいく、ことかな、とつくづく思います」

ヒットチャートから遠ざかる中、時代に抗おうとする筒美の姿を、松本隆は見ていた。
「なんか老けたような感じがする、って言うからさ、じゃあ、なんか、今までやったことないことしなよって言ってさ。京平さんはね、あまり運転は得意じゃ無いから、逆にポルシェ買っちゃいな」
説得したらマジに買っちゃって、新車来たから見に来てって言うから、真っ黄色でさ。やっぱこの人天才だと思った」

1994年、筒美は一つの曲を書き上げた。
ノッコ『人魚』
この時筒美は54歳、こう語っていたと言われる。「もっと曲を頼んでほしい。プレッシャーの中で名曲は生まれる」

2700曲を世に送り出し、10月に80歳でその生涯を閉じた。
筒美は最晩年まで曲作りを模索し続けていた。

作詞家・橋本淳「本当に世の中で愛されて、成功したと思うんですけど。自分でそれが素晴らしいとか、思ったことないと思いますよ。3年後はこうなって、5年後はこうなって、そういうことをいつも考えている人でもう必死でやっていました」
日本の歌謡界がまだ若かった頃に出会った作詞家と作曲家。
半世紀近くの歳月が流れた。

松本隆「京平さんに関しては心残りって全然ないよ。全て教わったし、会話もしたし。生きたしね。そういう意味では、心残りはない。もう一度会いたかったって言うだけ。もう一度会って話がしたいとか、あと手が握りたかったなとか。そのぐらい。僕は会いたかったよ。手を包んであげたい」

筒美が最晩年に制作した未発表曲が見つかった。
『Pale Moon(淡い月)』というタイトルが付いていた。
船山基紀いわく「とてもあったかい曲ですよ」


登場人物の敬称略。
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さまざまなヒット曲を持ち、似た曲がないため、「これって、筒美サウンド?」というのが無い。
テレビで筒美さんを見かけたことがないなと思ったら、ほとんどの人が会ったことが無いようだ。
芸能人と交流が広い徳光和夫さんも話をしたことがなかったようだ。
番組内でも、出身や生い立ちにも触れられなかった。

尾崎紀世彦『また逢う日まで』、南沙織の『17歳』など、もっとエピソードを知りたい曲が満載。


『阿久悠物語』の記事はこちら(2017年9月2日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12305987392.html

では、明日。