◆古代中国・よみがえる英雄伝説-2 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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乱世が生んだ故事成語

▼武漢・長江大橋: tabi-appさんによる写真ACからの写真


激しい戦争が繰り返された春秋戦国時代、その中から私たちがよく耳にする故事成語がいくつも見られた。

五十歩百歩
蛇足
漁夫の利
鶏鳴狗盗(けいめいくとう)
矛盾
鳴かず飛ばず

中でも有名な故事を生んだのが、長江の下流域にあった呉と越という2つの国の争いだった。
2つの国のような仲が悪い者が一緒になることを、呉越同舟と言う。
湖北省博物館に、ライバル関係を表す貴重なものが残されている。
越王勾践(こうせん)の剣が、サビ一つない状態で出土した。
金属を薄く塗装しその表面を細かく削った紋様。
越王の名、自作の武器と記されている。
呉王夫差の矛は今なお、鋭利さを保つ刃先。
勾践の剣と同じ紋様がある。
自作の武器と記されている。

呉王夫差と越王勾践の2人は、積年のライバルだった。
呉王夫差の父・闔呂は越との戦いに敗れ、その時の傷で命を落とした。
夫差はその恨みを忘れまいと、夜寝る時も薪の上に横になり、体の痛みを感じるたびに復讐を誓った。
呉王夫差は3年後に会稽山で勾践を降伏させた。
敗北した越王勾践は、以来食事のたびに苦い獣のキモをなめて雪辱を誓い、ついに呉の国を滅ぼした。
このエピソードから、悔しさをバネに努力するという臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の故事が生まれた。
越王の剣と呉王の矛、2つの国は有名な故事を生んだ厳しい時代を伝えていた。

辺境の遊牧民から勢力を伸ばし、西戎の覇王となった秦。
しかしそう簡単に統一とはとは行かなかったようだ。
秦の前に立ちはだかった強敵、それは黄河中流域の中原に位置する国々だった。
中原はかつての王朝、夏王朝が栄えた場所だった。
夏王朝は、宮廷儀礼という制度を打ち出し、王の権威を示すことで秩序を保ったのだと言う。
その跡地に起こった国々の拠り所は、夏王朝以来の文明の中心地を受け継ぐという自負心だった。
秦はこの中原の国々にどう対抗していったのだろうか。
中原を取った者こそ、天下の覇者である。
西戎の覇王となった秦は、満を持して中原に進撃する。
ところが勢力、組織力ともに敵陣が上回り、秦の軍はあえなく全滅した。
しかし秦は諦めなかった。
その後も度々中原へと進撃を繰り返した。
秦を始めとした周辺諸国の勢力拡大により、中原の国は大きな危機感を抱き始めた。
この事態に、中原の国々である楚、呉、越はどう対応したのか。
中原の一角、山西省候馬市で重要な手がかりが見つかった。
長さ20センチほどの平らな石に真っ赤な文字が記されていた。
見つかった石は、字が判読できるものだけで650にのぼった。
この頃の歴史書に度々登場する「会盟」という文字。
それまで争っていた中原の国々が、同盟を結び始めていた。
この石はこうした同盟を結んだ際の盟約書・候馬盟書。「私は同盟に参加することを心から誓う。もし同盟を守らず反乱するようなことがあれば、神が罰を下し、我が一族を滅ぼすだろう」
中原の国々は同盟のたびに夏王朝以来の伝統の儀式で結束を固めていた。
昨日の友は一夜にして敵に変わる、裏切りの相次ぐ春秋戦国の乱世を生き抜く手段、それは生贄として捧げる牛の耳を切り取り、そこから取った血を参加者全員が口に含むという儀式だった。
最も有力な国が儀式を指導したことから、「牛耳を執る」「牛耳る」という故事が生まれた。
出土した石は、この時に牛の血と赤い顔料を混ぜて書かれた盟約書だった。
周辺勢力の拡大とともに、ますます夏王朝の権威に頼る中原の国々、やがて自分たち自身のことを「夏」と呼ぶようになっていく。
自らを夏とする一方で、四方の周辺勢力を、
東夷
北狄
西戎
南蛮
と呼び、文化の劣った野蛮な人々だとして排除しようとした。
東京大学の平勢隆郎教授は「中原の人たちは自らの正当化のために最古の王朝である夏を利用した」と考えている。
夏王朝の権威を利用して、自らを夏と呼んだ中原の国々。
この「夏」という言葉が後々になり、中心を意味する中と一緒になり、中夏となった。
さらに夏の文字が、発音と意味が近かった華の字に代わり、中華という言葉になったとされる。

「中原を撃たなければ、秦の国に先はない」始皇帝から6代前の孝公の時代、秦は富国強兵のための大改革に乗り出した。
その方法は意外なもの、能力のある者なら誰でも構わないと、改革の担い手を対立する中原の国に求めた。
中原の魏の国のまつりごとを担い、国力を充実させたことで知られる商鞅(しょうおう)。
当時使えていた宰相の死によって職を失っていたため活躍の場を求めていた。
その改革とはどのようなものだったのか。
湖北省雲夢県の工事中に、秦の行政官の墓が発見された。
棺には、遺体の周囲に残されていた無数の細長い竹簡があった。
ぎっしりと書き込まれた文字は、秦の時代の法律を表した睡虎地秦簡。
商鞅は、まだ中原で生まれたばかりの法という考え方を、秦の国に持ち込んだ。
600巻以上にも及ぶ法律文書、庶民の生活を事細かに取り決めていた。
厳密な法律制度を運用することで、人々を巧みに統治し、国力を飛躍的に高めた。
さらに商鞅は、兵士たちの意識を高める画期的な軍事制度を導入、これも大きな効果を発揮した。
20段階の爵位を設定した。
戦場で成果をあげるほど高い爵位となり、生活レベルが格段に上がる仕組み。
秦の法律文書が出土した線路脇の水路からは、この軍事制度の効果の大きさを物語るものも見つかっている。
長さ20センチほどの木の板に書かれた文字。
2000年以上前の兵士が、母親に送った手紙には、戦争で手柄を立てて爵位をもらったことが書いてある。
仕留めた敵の首と引き換えに爵位をもらう兵士たち、身分を問わない徹底した実力主義は兵士たちの戦意を驚異的に高めた。

法律の整備や人々を巧みに戦争に動員する改革をした秦は、軍事大国へと変貌を遂げた。
紀元前340年、商鞅自ら遠征軍の総帥となり、中原の魏の国に進撃し、その精鋭部隊を打ち破った。
野蛮とされた秦が、中原の一角を崩した。
なぜ中原でなく、秦がこうした改革に成功したのか。
古くからの文明を継続する中原の国では王族や貴族の権力が強く、各都市に有力者がいた。
それが大きな改革の抵抗勢力となった。
一方、発展が遅れていた秦では、こうした勢力が少なかった。


前回の「古代中国・よみがえる英雄伝説」の記事はこちら(2020年6月2日)
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では、明日。