◆ドラマ『天才を育てた妻 〜世界が認めた数学者と妻の愛~』 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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天才を育てた妻 〜世界が認めた数学者と妻の愛~
読売テレビ開局60周年記念スペシャルドラマ。
天才数学者・岡潔(佐々木蔵之介)の波乱万丈の人生を天海祐希さん演じる妻の目線から描いたドラマ。
脚本家は『ドクターX』『相棒』を担当した林 誠人氏。

京都大学附属病院( くぽ丸さんによる写真ACからの写真 )

1924年、みち(天海祐希)は大阪日本橋の北村眼科で働いていた。
将棋の坂田名人(村田英雄の歌「王将」のモデルになった人物)はここで治療を受けていた。

北村先生「みっちゃんは、新もんすき、珍しもんすきの代わりもんやからなあ」
みちが外に出た際に、雷が空に向かって登っていったのを見た。
ブルージェット現象だった。
隣で潔(佐々木蔵之介)も見ていた。
潔は、あり得ない現象だと言っていたが、みちが言った「無いもんもあるって考える」という言葉が、目からウロコだった。
潔は北村先生の甥っ子であり、みちの家で居候することになった。
潔は京大の講師になることも決まっている。
「あいつと一緒になったら、苦労に殺される」

みちは「普通から一番遠いところにいる人」と思っていながらも、何となく興味を抱いていた。
潔は同級生・秋月(生瀬勝久)に話をし、それから意識しだした。

潔は数学を使って、ある家の隠し財産を掘り探しあてた。
「花の数、雲の流れ、風の流れ、世の中、数式で表せることで満ちている。僕はその謎を知りたい、それが夢だ」
また、「スミレはスミレ、スミレ自身は何の役に立つかなんて考えていない。スミレはただスミレのように咲けばいいのであって春の野にどんな影響があるかなんて、スミレには預かり知らないこと」
みちは、気づいたら潔に惹かれていて、翌年結婚した。
みちの父は結婚には反対。
潔の両親は、同じ日に妹の結婚式があるからと言って、席を立ってしまった。

京都帝国大学の講師に就任した。
初日にネクタイを締めず、弁当を忘れて出かけたので、みちは届けに行った。
湯川秀樹も朝永振一郎も講義を聞いていた。
潔は長靴を履いて講義をしていた。

坂田三吉の妻(泉ピン子)「みっちゃん、放っておいたらあかん、躾けるんなら今のうちや」

4年経って木下教授(立川談春)から、潔は「いい加減な授業をしている、妄想を追いかけているだけで、論文を出していない」として京大を追い出されることになった。

1人でフランスのパリ・ソルボンヌ大学に留学することを決めた。
「追いかけたる」
フランス語を熱心に勉強した。
みちの父の容体も悪く、「あの男を立派にさせや」と逝去。
お金を渡してくれたため、1年遅れてパリに到着。

数学の権威のガストン・ジュリア教授がいた。
潔は「世界はもうずっとずっと先に行っている」

当時世界の数学界は、多変数複素関数論における三大問題と言われる難問に突き当たっていた。
多くの数学者がその難問に頭を悩ませ、挑んでは砕け散っていった。
潔もそのその1人だった。

クロックマダムが、三大問題解決の糸口になった。
1年かけて論文にまとめあげた。

満州事変が始まった。
「僕は帰らん。ここでしか数学は完成しない」
みちはお腹に赤ちゃんが出来たことを伝え、日本に戻ることにした。

秋月から「ここは帝大や、もらう給料は国の金、研究の成果を論文として提出するのが仕事」
秋月はみちに「潔の頭の中には種だけ。それを探して見せないことには、誰からも認めてもらえない」

潔は単身広島文理科大学に行き、みちは出産した。
父は潔の才能にかけていて、当時にしては大金の10万円の借金をしている。
潔がやってきて、長女の名前が決まっていた。
すがね、というなまえだった。
暮らしに困り、質屋に行ってパリで買った服を売りに出し、潔は給料を半年前借りしていた。
秋月からはこずかい稼ぎに本を書けばと勧めてもらえたが、潔は引き受けなかった。
潔の父が借金をして潔に賭けてくれたことを言ったが、潔には暖簾に腕押し。
「もう終わりや、あんたとは暮らしていけへん」

2人目の子が出来た。
お腹が空いて、みちは北村眼科でご馳走になった。

坂田妻から「貧乏は底なし、まだまだ続く。信じてあげなあかんということ」
みち「離婚したいと思いませんでした?」
坂田妻「自分にも私にも、嘘つかんかった。将棋したい、ただそれだけの人だった」
帰りにお金を包んでくれた。
「生かすも殺すもあんた次第や」

三大問題の1つ目の答えが潔の中でまとまった。
論文は4ヶ月で完成したが、発表披露の授業で木下から「君の理論は君の頭の中だけで暴走している妄想に過ぎない。君は、君だけの持論と共に生きていたまえ」
潔はショックで帰り、土足で家に上がった。
秋月が心配で様子を見に来たが、押入れに入って出てこない。
出たと思ったら、うめき出して倒れた。
睡眠不足からの障害で入院。
電気療法ぐらいしか施しようが無いと言われた。

みちは木下のところに談判。
「まだ、途中経過のようなもの。価値がないって思ってませんか?」
話し合いは平行線で、帰りにみちは「一人で信じるしかない」
潔は病室で寝ていなかった。
床に数式を書いていた。
「眠っているわけにはいかんのや」
家族4人広島を離れ、和歌山の故郷の紀見峠で暮らすことにした。
(ロケ地は深谷市横瀬132の丸山酒造)

翌年の夏、潔の父は亡くなってしまった。
葬儀の時に、潔はほたるを見ながら、突破する方法がひらめいた。
それから1年半、論文は形になった。
ガストン・ジュリア先生にも送った。
ところが大平洋戦争で全ての学問は止まった。
配給が止まり、家族は拾った同然の草を食べていた。
潔は、仕事をくれと木下に頭を下げたが断られた。
数学の本を売りに出すと言うが、みちは「きよっさんは数学のことだけ考えたらいい」

フランスから手紙が届いた。
アンリ・カルタンからだった。
潔はこれまでの理論をさらに進めた、不定域イデアルという概念を打ち立てた。
その論文を木下教授に読んでもらうために、みちは京都大学へ行った。
湯川博士の渡米壮行会の真っ最中だった。
秋月が止める中、みちは会に入り込んで演説台に上がり、来ていた数学者達の前で、カルタンから手紙がもらって、理論の大半が完成したと披露した。
「どなたかこの論文読んでいただけないでしょうか。どうかお願いします。涙ながらに訴えた」
木下が「わたしにはその論文の中身がわかりません。湯川君に託したらどうかね」
アメリカ・プリンストン大学に行く湯川が預かってくれた。

1955年秋月が連れて来て、カルタンが訪ねてきた。
潔の不定域イデアルの理論が世界から認められ、現在数学を大きく発展させる起点になった。
多変数複素関数論を先に押し進めた数学者はまだいない。

1960年に文化勲章を受賞した時、潔はまだ59歳だった。
(ロケは越谷市日本庭園 花田苑)
囲み取材になり、潔がスミレの件を話したため、記者がぽかーん。
潔は「勲章、みっちゃんにあげるわ」
みちの首にかけた。
潔「生まれ変わっても、また、結婚してな」
みち「もうこりごりですよ」
みち「え、計算ちごうたかな」
2人の幸せそうな笑い声が響いた。


前回の「陰陽師」の記事はこちら(2020年4月18日)
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では、明日。