◆岡田准一のザ・プロファイラー「北大路魯山人ってどんな人?」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
美味しかった店はもちろん、雰囲気の良かった店を紹介していきます。
2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
ちょこちょこ地域別索引も更新中。
現在、「いいね」返しが出来ません。

総合芸術家・北大路魯山人
その才能ゆえ波乱の生涯

まぽさんによる写真ACからの写真を利用)

「富士山には頂上はあるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい。それを極めた通人などというものがあり得るかどうか」

明治16年に生まれた。
生まれる前に父親が自殺、母親は失踪した。
養子先を転々としていたころ、上賀茂神社の裏山を登った。
真っ赤な山ツツジが咲いていた。
きれいなものを生涯追い求めて行きたい。
確固とした信念が心に定着した。

房次郎は6歳の頃、安い三等米でも美味しい米に変え、上手な米炊き人となった。
養子先でも料理も気に入られた。
人生で初めて自分が人に認められた。

絵が孤独を慰めてくれた。
なんとか金を稼ぐ方法はないものか。
木版の仕事を手伝うからと、絵を描くことを許してもらった。
手伝いをしながら、彫刻や絵画に親しみ、絵の基礎を学んだ。

やがて一字書コンクールで、天の位に選ばれた。
書で賞金を稼ぐことを覚えた。
造形力は書によって磨かれた。

東京へ行って書の修行をしようと考えた。
実母が東京にいると知らされた。
実母を訪ねて東京へ向かった。
生まれて20年間会えなかった母。
しかし、意外にも実に冷たくあしらわれて、恐ろしささえ感じたほどだった。
子ども時代に失望した記憶、1人で生きて行こうと決めた。

美へのこだわりは桁違い。
ギヤマンという器に、1ヶ月分の給料をつぎ込んだ。
のちに「器は料理の着物」と称した。

24歳で結婚し、2人の子を授かっていたのに、美術の研究のため、朝鮮半島へ渡ってしまった。

2年後帰国して京都実業家・内貴清兵衛の食客に選ばれた。
屋敷にタダで住まわせてもらえた。
清兵衛の言葉「料理も芸術やで」

古美術店の大雅堂を経営することになり、中村竹四郎が、共同経営者となった。
彼とは深い信頼関係を築いた。

北大路魯山人の誕生だった。
店を開業した直後、大不況が訪れた。
美術品の陶器に高級食材を使った料理を客に出すようになり、大雅堂は繁盛し、美食倶楽部と名乗るようになった。
関東大震災で、大雅堂も焼け落ちた。
再開して欲しいという常連客が後を立たなかった。

都心の一等地に高級料亭を開業、会員制の高級料亭を開業した。
都内に3000坪。
天下の料亭・星岡茶寮。
料理や、器はもちろんのこと、料理人の服装や仲居の接客、室内の装飾品まで徹底的にこだわった。
食の理想郷を築いた。

肩書きは魯山人が顧問、中村が社長。
客が全てに満足できる空間を目指した。
自ら料理長となって、既成の概念を次々とくつがえしていった。

食材にこだわった。
京都から鮎を取り寄せることにした。
鮎は傷みやすく京都からは3・4日かかる
はらわたを抜かないとならないが、味が落ちてしまう。
そこで、鮎を生きたまま運んだ。
48時間かき混ぜて、空気を送り、死なせないようにした。

一品ずつ料理を出すスタイルにした。
今の日本食に通ずるもの。
客の好き嫌いをメモして、決して嫌いなものは出さなかった。
仲居に洗練された所作を身につけさせた。
1番のこだわりは器、膨大な数の器を自ら作るようになった。
箸置きのような小さなもの、風呂、便器まで自ら作った。

会員には政治家、作家、実業家など各界の名士が集まり、当時の名だたる名店となった。
しかし、魯山人が認めない人物は会員になれなかった。
食の理想郷となった星岡茶寮は大成功し、魯山人は時の人となった。
「星岡料亭の会員でなければ、日本の名士ではない」
と言われたほどだった。

北鎌倉にも魯山人が作った場所がある。
星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始した。
古今の名品を収集。
坐辺師友(ざへんしゆう)の精神を唱えた。
優れた人・物に囲まれて生活しているとその心をおのずと学びとることができる。
身辺にあるものが師であり友であるという意味だ。

古美術の傑作に触れ、目の肥えた魯山人は、職人に求めるものが高くなっていた。
世間からの高い評価の反面、徹底して美を追求して完璧を求める姿勢は、周りとの軋轢を生んだ。
気に入らない従業員は罵倒し、次々とクビにすることもあった。
「高い理想を掲げるるものは必ず非難されるものだ」
魯山人は、己の信じた道を歩いて批判を恐れなかった。
従業員たちを辞めさせて、1年半で33人の料理人が去って行った。

いつしか従業員たちから、竹四郎は旦那様と呼ばれた。
温厚で人望が厚く、魯山人に怒られた従業員を辞めないように慰めた。
これに対し魯山人の呼び名はドラ猫。

星岡茶寮の名声は高まり、お客は増える一方。
経営も順調に見えた。
しかし、魯山人と竹四郎の間には、少しずつ亀裂が入っていた。

魯山人が買い集める古美術品が、天井知らずに膨らんでいたのである。
最初は竹四郎も目をつぶっていたが、出費が経営を圧迫するほどになり、ついに魯山人にこう切り出した。
「少し収集を減らしてもらえんやろか」
「何を言うか。星岡はわしのおかげで持っているんや。皿一枚も自由に買えんとは、料理を作るものなどようやらん」
魯山人は意に解さなかった。

昭和11年7月、魯山人の元に一通の内容証明が届いた。
書かれていたのは「北大路房次郎、解雇」
魯山人が心血を注いだ料亭から追放された。
それまで自信満々の魯山人からは想像もつかないうろたえ方だった。
魯山人は唯一、心を許していた友から捨てられた。

従業員の間では、怒り狂った魯山人が殴り込んでくるのではと、戦々恐々だった。
何日か経って、魯山人が現れた。
従業員たちが玄関に立つと、
「元気でやっているかな、それじゃ」それだけ言い、出ていった。
茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

追放された魯山人に残されたのは、北鎌倉の星岡窯(せいこうよう)。
客の注文を取り、焼き物を売るしか方法がなかった。
しかし、そのことか魯山人を再び輝かせることになった。
なぜなら、陶芸に徹し切る事が出来たから。
傑作とされた作品を次々と生み出したのは、50歳を超えたこの時以降なのである。

陶芸に追い求めたある色があった。
幼い頃に見たヤマツツジの色、鮮やかな赤に衝撃を受けた。
その記憶を志野焼の器に焼き付けようとした。

魯山人64歳の頃、銀座に魯山人の焼き物を扱う専門店がオープンした。
店の名は火土火土美房。

再び自信満々のドラ猫になっていった。
作品は、進駐軍の将校たちに大人気となり、その噂はアメリカ本土にまで広がった。
ついには、アメリカ屈指の大富豪・ロックフェラー3世から、アメリカでの展覧会と講演を依頼された。
しかもロックフェラーは費用の一切を出してくれると言う。
しかし、魯山人は費用は受けなかった。
昭和29年、魯山人は500万をかき集めて、海外に出かけた。
魯山人はピカソや、シャガールと面会した。

1955年、人間国宝(重要無形文化財保持者)の指定を打診された。
欧米旅行の大借金のため、従業員たちにろくも給料も払っていなかったため、作品の値打ちがさらに高くなることを従業員たちは期待した。
しかし、魯山人は申し出を断った。

末期の肝硬変で入院、76歳でこの世を去った。
生前の掛け軸は絶筆『聴雪』
雪の降る音のように聴こえない音を聞く、という意味。
ある種の達観の要素と言われた。
「わしの人生は、この世の中を少しでも美しいものにしたいと歩いたものだった」

星岡を追われてからの方が、素晴らしい作品を残している。

----- ----- -----
これまで名前はちょこちょこと聞いていたが、どんな人なのか、その経歴は知らなかったが、グルメな人だと思っていたので番組を録画した。
一言でグルメと片付けては怒られそうなこだわりの人物。
生涯を駆け足で見たが、ブレない、こだわりそのものの人生だった。


前回の「ザ・プロファイラー」の記事はこちら(2018年11月23日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12420730934.html

では、明日。