東大歴史学者・本郷和人先生
林修にどうしても教えたい女性たちの生き方とは
<第3位 淀殿>
戦国時代・初代徳川家康の時代を生き、浅井長政の娘で豊臣秀吉の側室となった
関ヶ原の戦いや大坂夏の陣といった歴史上の大事件に関わって日本の歴史を変えた
観光大国日本の礎となる京都の美しい町並みを作った。
北野天満宮
東寺
醍醐寺
これらの再建にお金をたくさん出している。
当時のお殿様は一夫多妻というのが当たり前。
秀吉はお姫様好き
淀殿が有名な理由は、秀吉の子どもを産んだから
なかなか子どもが産まれなかった秀吉は大喜びして、淀殿に城をプレゼント
秀吉がこの世を去った時、跡継ぎの秀頼は6歳だったため、豊臣家の実質的なトップは淀殿になった
1600年 日本の歴史を左右する・関ヶ原の戦い
東軍の勝利で、徳川家康は江戸幕府を開く
淀殿は京都の町づくりを始める
なぜ淀殿は京都の町づくりを始めたのか
朝廷を味方につけ、家康に対抗するため
朝廷から得られる官位には権威としての威力があった
秀吉は朝廷に関心を示さなかった
側室には公家出身者がいなかった。
淀殿に対抗し、家康も京都開発に参戦し、京都が繁栄した
1615年 大坂夏の陣で敗北、息子の秀頼と共に淀殿も自害
彼女は豊臣家を守り大坂城とともにこの世を去った。
戦乱の世を戦い抜き、京都の町を作り上げた立派なヒロインだった。
<第2位 桂昌院>
現代につながる福祉の概念を作り出した
3代将軍家光の側室、5代将軍綱吉を産んだ。
人生が語源とも言われる言葉は
京都市北区今宮神社は玉の輿の神社として有名
桂昌院がかつてお玉さんと呼ばれていた
お玉さんが輿(こし)に乗って江戸へ向かったからと言われている
京都の八百屋さんの娘だったと言われている
そこへ下級武士だった本庄という家養女の誘いを受けた
武家の紹介で公家出身の尼僧の侍女として仕えた
江戸で将軍家光にお目通りを願ったら、尼僧に家光が一目惚れして側室になって大奥へ
尼僧の身の回りの世話をするために入ったら、家光の目に止まって、桂昌院も大奥へ
そして自分の産んだ子・綱吉が将軍になった。
綱吉と言えば、あの悪法・生類憐れみの令の制定に大きく関わり
以前は「人間よりも犬を大事にする」という悪法とされていた。
最近の研究では「生き物全ての命を大切にする法律」と見直されてきた。
桂昌院の持っていた概念が強く反映されていたとされる。
誕生したきっかけとなったのは、綱吉の子どもが亡くなったから
その後も綱吉はなかなか子宝に恵まれなかった
どうしたら子宝に恵まれるかということを考えた。
仏教的に考えると、“功徳を積む”人のために良い行いをすること
当時は殺人事件や捨て子が多いような殺伐とした世の中
人に優しい政治をしましょうと、綱吉にアドバイスをした
そこで生類憐れみの令が作られた
桂昌院は、生活に困った人にはいろいろな施しをしたり、病気の旅人に薬を与えて治療した。
八百屋出身だった彼女は、庶民の辛さもたくさん知っていたから。
福祉制度の根本・概念を作り出した
桂昌院が広めたと言われる今でも残る風習とは、七五三
宮中で行われていた七五三を桂昌院が庶民にも伝えたとされる。
彼女は亡くなる前にこんな句を残している
「私は仏教による御利益を受けています、後世の人々も繁栄しますように」
<第1位 篤姫>
江戸の終わりに日本のために命をかけて戦った女性
江戸末期から明治を生きた女性
薩摩藩・島津斉彬の養女になった
薩摩の国で1万石くらいの分家の娘
斉彬は日本を一つにまとめようと考えていた人物
徳川家と一部の大名以外は政治に関われなかった
そんな中、将軍の嫁候補として島津家に声がかかった
徳川家と縁戚になれるチャンスであった。
ちょうどいい年齢の娘がいなかったため、養女だった篤姫を差し出した。
島津斉彬と篤姫が実の子だと騙すためにとった作戦は偽装報告書を作った。
こうして平和な日本を築こうと決意を固めたが
最愛の夫・徳川家定と父・島津斉彬が立て続けにこの世を去った。
次第に世の中は倒幕に傾き、遂に新政府軍が江戸総攻撃を計画する。
もともと篤姫は「強力な日本を作ろう」ということが、父親から託された願いだった。
それを彼女はずっと心に秘めていた。
江戸城に新政府軍が攻めてくる時に彼女が考えていたことは
「人々の血を流さない」「江戸の庶民を戦争に巻き込まない」
無血開城に向けて動き出す。
新政府軍の先頭に立っていた人は、皮肉にも篤姫と同じ薩摩出身である西郷隆盛。
平和を願う篤姫が取った行動は、西郷隆盛に手紙を書いたこと。
たった一通の手紙で100万人の命を救った
薩摩藩の武士では下の方の西郷にしてみれば、薩摩のお姫様から手紙をいただくほど光栄なことはない。
手紙の中身が、西郷の心を打つようなものだった。
薩摩藩のお嬢さんが正室に入っていたことが、総攻撃をかけて来た薩摩郡の兵には、非常に効果的だった。
彼女が島津斉彬から「平和な日本を作ろう」と言われていなければ
江戸の町は大きく荒れて被害が出て、明治国家の建設も大きく遅れて、東京の発展もなかったかもしれない。
大奥の人々の就職や結婚の世話をして、私財を全て使っていた
亡くなったときの所持金は3円だった(現在の価値 6万円)
一人になっても最後まで奔走して、平和のために戦って、現在の東京までつながる江戸の町を守った。
<番外編・北条政子>
夫を大衆せさせる妻としての夫操縦術
武士の結束を強めた
1159年平治の乱 頼朝は罪人として伊豆に流され、監視役だったのが北条時政で政子の父
当時の関東は荒くれ者が席巻していて、関東出身にはない育ちの良さがあった
頼朝は北条氏とのつながってもう一度表舞台に立ちたいために、政子と結婚した可能性もある
関東節の結束を強めた頼朝と政子の行動は、夫婦喧嘩を盛大にやったこと。
ある日、頼朝が浮気をした
関東では一夫一妻が普通、政子はあねご肌で強かった
浮気相手の女性の家を壊してしまった。
頼朝が偉いなと思ったのは、これからは妻一筋と謝った。
関東武士からしたら、頼朝はいつか裏切りそうなイメージがあった
喧嘩しても離れない二人を見て安心した。
1192年頼朝は征夷大将軍になったが、7年後落馬して命を落としてしまう。
後鳥羽上皇(第82代天皇)鎌倉幕府打倒の命令を発したが、武士はどちらにつくか迷っていた。
政子が立ち上がり、世紀の大演説
「頼朝の恩義はあなた方武士にとって海よりも深く山よりも重いことを思い返してほしい」
その言葉を聞いた武士たちは涙を流して鎌倉幕府のために戦った。
承久の乱
これは日本で唯一、朝廷軍に勝利した戦い
前回の林先生と本郷先生の対決の記事はこちら(2016年7月23日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12183193132.html
では、明日。