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『スカーレット』が陥った「悲惨なる光景」【その7】…コロナ禍、日常、そして「身の丈」

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 3月28日現在、日本国内での新型コロナ感染者数が遂にピークに達したのだという。  
 
 
 私は確かに、過去記事でこんなことを書いた。忘れてなどいない。   
 
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『スカーレット』が陥った「悲惨なる光景」【その7】…コロナ禍、日常、そして「身の丈」

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 「…絶対出てくると思っていましたよ。この様に新型コロナウイルス禍と結びつけるバカな論調が。」
  「本当にいつもと変わらぬ日常を懐かしまねばならない程に、我々は非日常を送らされているのでしょうか?」
 
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…流石にここまで現実の危険水位が上昇し、非日常に侵食されると、『スカーレット』の感想にコロナウイルス禍を絡めた論調にも一定の分があったことを認めなければならない。
 
 いやそれでも、スーパーでの買い溜めに走る愚かしい行為は、やはり「いつもと変わらぬ一日」を送る者らの暴走であることには何ら変わりはないが。  
 
 ただこの「いつもと変わらぬ一日」というキーワードは、残念ながらこういった時流を受けてリアリティと説得力を削がれてしまった感は否めない。パワーワードにはなり得ないのだ。  
 
 どういうことか?簡単な話である。  
 
 架空の人物に託す有様としては清く健気に思えたとしても、いまこの我が身に置き換えて考えた場合、余命数か月、または明日をも知れぬ己が「いのち」の結末だ。「いつもと変わらぬ一日」で、という呑気な諦念に流されたまま死ねるのか…そういう話だ。  
 
 人間て、そうもカッコ良く死に際を迎えられるモノではないだろう。  
 
 人生半ばにして己の生命が奪われそうになったら、誰だって死力を尽くし、闘い、諦めないだろう。 これは理屈ではない。本能だ。
 
 反面、自分がこの世から消えた後に、何を残せるのかは勿論無意識にでも考える。ただその傍らで、迫り来る恐怖に怯えて「生」にすがりつこうとするだろう。生き続ける道を模索するだろう。  
 
 何回か触れたが、神山母子の闘いとはまさにそういうモノだったのだ。少しも不自然な話じゃない。だから余計なことを考えなくたって、誰でも感情移入出来る「ホントの出来事」、なのだ。  
 
 結局私はこう思うのだ。「いつもと変わらぬ一日」というのは水橋文美江氏が朝ドラの景色に相応しくない闘病の生々しい描写と向き合わない為に考え出された方便の賜物、これではないかと…。  
 
 
 ここ2週間ばかりの『スカーレット』の、あまりにも闘病を蔑ろにした有様を観ると、こんな仮説も我ながら正鵠を得た気がしてならない。  
 
 いつも私は同じことを言うが、この「いつもと変わらぬ一日」が一種偽善的なのは『火火』を観ればすぐわかる話なのだ。実話を重視した内容なのだから当然なのだが、あの母子がどれだけの闘いの中で身をやつしていったか…。
 
 
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  「現実」では新型コロナによる東京ロックダウンの可能性と生命の危機への実感と…そんな最中に「いつもと変わらぬ一日」…。 
 
  『スカーレット』において空想された「信楽」というムーミン谷ならいざ知らず、オーバーシュートがあまりにリアルに差し迫ったこの段階での日本では、流石に大方の人々は「いつもと変わらぬ一日」共感し難いのではないか。
 
 優しい童話風・御伽噺的・絵本チックな物語としては楽しめたとしても、決してヒリヒリする様な危機感に晒された多くの日本人の心に深く刺さるモノではないだろう。決して。
 
 
 
 残念だがここでも、『スカーレット』に追い風は吹かなかったのだ。  
 
 …そもそもが、制作側が過剰に視聴者の顔色を窺った顛末、とも言えるのだが。
 
 
『火火』より。神山清子(田中裕子)、賢一(窪塚俊介)母子、別離の場面。
 

 

(つづく。残2回)