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幸運の秘訣 「 今ここにある幸せを受け入れる 」

(4/7)
おはようございます。
今日は、心理学者 リチャード ワイズマンの一言。
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 【今日の一言 2016年4月7日】
「肩の力を抜いて、日常生活にたくさんあるチャンスを受け入れ
 よう。そこにあってほしいと思うものを探すのではなく、そこ に
 あるものを見るだけでいい。…パーティーに行っても理想の
 パートナーを見つけることしか頭になければ、生涯の友人を
 つくる機会を逃すかもしれない。あなたの周りには、偶然のチャ
 ンスがたくさんある。見るべきところを見て、そこに実際にある
 ものを見つめればいいだけだ」
 (リチャード ワイズマン 心理学者
    「運のいい人、悪い人―運を鍛える四つの法則」)
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  何かを期待して、どこかに行く、何かに参加するということはよくあると思います。例えば山に行くにしても、快晴を期待して行ったら、霧の中だった。雲海を見に行ったら雲一つなかった、星空を期待して行ったら月が明るすぎてあまり星が見えなかった、紅葉を期待して行ったら、一面雪の原だったなんてこともあるものです。だからガッカリしたとなるのではなく、違う楽しみを見つければいいのです。期待以外にも沢山素晴らしいものが散りばめられているのですから。期待と違っていたとしても千載一遇のチャンスがあるかも知れないのです。しっかり、集中して生きましょう!
「仕事で成功する千載一遇のチャンスというものは、誰にでも訪れる。 問題は、それにいかに敏感になるかだ」(ジョン・ワナメーカー アメリカでもっとも古いデパートチェーンの一つワナメーカーの創業者)
「企業に勤めると、冷や飯を食わされる時もある。その時にグチをこぼしたり、腐ったりして、仕事をろくにしない人が多い。成功する人とは、この冷や飯を上手に食べた人であるといってよい」(川上哲治 打撃の神様と言われた 巨人V9時の監督)
「その時の出逢いが人生を根底から変えることがある。よき出逢いを」 (相田みつを 書家・詩人)
「一期一会」(千利休)

幸運の秘訣 「 何を生業として世の中に貢献するか決意する 」

(4/6)
おはようございます。
今日は、自己啓発作家・講演家・メンタルコーチ
アンソニー・ロビンズの一言。
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 【今日の一言 2016年4月6日】
「人生を決定するのは、条件ではなく、決意である」
(アンソニー・ロビンズ 自己啓発作家・メンタルコーチ)
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  成功者は、恵まれたいい条件の下で育ってきたか?というと必ずしも そうではないようです。むしろ、小さい頃、経済的に恵まれなかったり、学校の勉強についていけなかっり、トラブルに巻き込まれたり、悪条件をバネにした人が多いように見受けられます。悪条件で諦めるのか?悪条件をバネにするのか?この意志の違いです。魂の成長を目指して生きると、上りも下りも、追い風も逆風も、熱風も寒風も、嵐も乾きも、不遇も厚遇も悲しみも喜びも、みな等しく恩恵であることがわかってきます。何があっても自分の成長の糧にする決意をしましょう!
「運のいい人は、たとえ悪いことが起きても、将来よくなるきっかけ になると考えている」(リチャード ワイズマン 心理学者)
「あなたの運命が形作られるのは、あなたが決断する瞬間なのです」 (アンソニー・ロビンズ)
 
(以下、長いのでお時間のある時にどうぞ!)
  Q さて誰のエピソードでしょうか?
  「私は両親の顔を知りません。親がいなくて、孤児院(生後間もなく 孤児院に預けられた)で育ったんです。そして3歳の時に、現姓の養 父母に引き取られました。でも、その養父がすごく荒れた性格でした。 数百円でもあれば、それをギャンブルに使う性格。パチンコに行く毎 日でした。私は掃除をしていないだけで、殴られたりもしました。す ごく暴力を振るう人でした。時には荒れて、隣近所に包丁を持って暴れることもありました。そんな養父に愛想をつかして、養母は家を出ました。そして残された私は養父と二人暮しをしました。まさに電気もなく、ろうそくの生活でしたよ。養父のためにパチンコ店で床に落ちている玉を拾ったり、道に落ちているシケモク(煙草の吸い殻)を拾って少しばかりの生計を立てていました。吸い殻を拾わないだけで全裸にされて殴られるという虐待生活で、千円札なんて見たこともなかったです。自宅も家賃が払えずに追い出されるので、半年で転々とする生活でした。そんな生活を送りながら、『将来は誰にも頼らずに一人で生きていかなければ』と強く思いました。 学校から弁当を持ってくるように言われた時は、貧乏で弁当を持っていくことができずに、みんなが昼ごはんを食べ終わるまで、校舎の裏で一人じっと待っていることもありました。また家庭訪問も断りました。4畳半の貧乏生活を学校の先生に見られるのが嫌だったんです。当時は食べたいものが満足に食べられませんでした。ごちそうといえば、煮干だったんです。そんな信じられないような生活が15歳まで続きました。高校に入学して、同級生の家でアルバイトをさせてもらったんです。ちょうど私の同級生が豆腐屋の息子だったんです。そこで早朝にアルバイトをさせてもらいました。毎朝その豆腐屋でアルバイトをさせてもらって学校に通いました。そのお金で高校の学費も払うことができました。もともとお金がなかったので、高校進学は諦めていたんですが、担当の先生に強く勧められて試験だけ受けてみたんですね。学費も自 分で稼げるようになったので、何とか無事に高校は卒業できました。 また、初めて自分でお金を稼いで、本当に嬉しかった。それまでは 食べたいものが満足に食べられない道に生えている雑草を食べて餓 えをしのぐような生活だったので、お金を稼いで少しは生活も楽に なったんです。またちょうどその頃に、養父も亡くなりました。ほ とんど栄養失調に近い状態で亡くなりました。死因はいちおう胃ガ ンだったんですが。でも、そんな荒れた養父でも、私は大好きだっ たんですよ。暴力も振るわれましたが、私は大好きだった。職業安 定所から年末に一時金として、少しだけお金をもらえたことがあり ました。その時に、そのお金で養父がリンゴを2つ買ってくれまし た。それくらいしか思い出らしい思い出はないんですが、その時の 嬉しい気持ちは今でも覚えていますね。(15歳までは)すごく孤独 な人生でした。だから少しでも他人から関心を持ってもらいたかっ た。興味を持ってもらいたかったんです。それが私の原点になって います。だから、商売を始めて、お金を儲けるというよりも、人に 喜んでもらいたかったんです。少しでも自分がいて良かったと言っ てもらいたかった」 高校を卒業した後、新聞広告を出していた不動産業の八洲開発㈱に 応募して入社、3年後の1970年に大和ハウス工業名古屋支店に 転職します。そこで、同僚として妻となる女性と出会います。彼女 も10歳で父親を亡くしています。結婚から2年後、2人は独立を 決意し、自宅の一階に不動産仲介の岩倉沿線土地の看板を掲げま した。しかし、独立起業がそんなに上手くいくわけはなく、不動 産業の収入は不安定で生活が成り立ちません。夫婦は安定的に現金 収入を得る手段として1964年に喫茶店「バッカス」を開店させま した。するとなぜか、オープン初日からお客が入るようになり、喫 茶店こそが天職だと直感、不動産仲介業からは手を引くことを決断 します。喫茶店が繁盛したことで1965年には、二号店として「浮 野亭」をオープンします。喫茶店は順調でしたが朝から満席になっ ていたので、それ以上お客様を増やすことは困難、そこで1977年 の春頃に出前を始めます。その出前メニューのひとつがカレーライ スでした。カレーライスは一度に大量に煮込んで、あとは温めて 盛りつけるだけなので、出前には一番いいと思ったそうです。一生 懸命まごころを込めて作ったカレーは一日に50皿売れるヒット商 品になり、出前で大忙しのお店になりました。そこでこれだけカ レーライスが人気になるんだから、カレーライスの専門店を作ろう と思い立ち、カレー専門店へのシフトを決断。1968年にあのカレー 専門店の一号店がオープンします。しかし、このカレー専門店は、 田んぼに囲まれた悪立地。開店時、忙しさにかまけて、商品に目が 行き届かなかったことも影響して営業3日目からぱったりお客が 来なくなったのです。お客を取り戻すため、マスターとして立つ 喫茶店の営業が終わった夜8時頃に、夫婦で毎晩、店に駆け付けて サクラの客になって、お客を呼び込む作戦を展開。普通は撤退する のかもしれませんが「地道に低い売り上げから積み上げていくこと が大事。やるべきことをやれば必ずお客は来る」と営業を続け、半 年経った頃から店は満席になるようになったのです。夫がアイデア や出店計画を担当し、妻が人の教育や資金繰りを受け持つ役割分担 で全国への展開が始まったのです。それからも業界の常識や既定概 念に捕らわれずに現場主義を徹底し、低価格競争に巻き込まれず、 単品主義を頑固に貫いきました。家庭的な癖のないカレーに、ライス を大盛り、小盛りだけではなく、百グラムごとに盛りつけたり、カ レーの辛さを自由に変更したり、さまざまな具をトッピングできる ようにするなど様々な工夫をし、1000店舗を達成したときには、半 年間、制服を着てカウンターの中に立つなど、常にお客様本位の視 線での商売を継続、また人財の育成に力を注ぎ、会社を成長させて きました。 もう、どこの会社かわかったでしょう。













答 宗次徳二 カレーハウスCoCo壱番屋の共同創業者

幸運の秘訣 「 自分の可能性を絞り出す決意 」

(4/5)
おはようございます。
今日は、平成の三四郎と言われた柔道家 古賀稔彦の一言。
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 【今日の一言 2016年4月5日】
「あきらめからは何も生まれない。
 1%の可能性でも見いだそうと壁に向かったときこそ、
 自分 の中に秘められていた新たな力が出てくる」
 (古賀稔彦 柔道家)
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  柔道、ボクシング、レスリング、空手…柔よく剛を制すといいながら 格闘技は体重が重い方が各段に有利ですよね。柔道もオリンピックなどたいていの大会は体重別(世界柔道選手権大会は無差別級がある)です。しかし、日本で一番格式のある全日本柔道選手権大会は無差別で行われています。1990年の全日本柔道選手権大会、古賀は75㎏(当時)前後という軽量にもかかわらず体重無差別ので重量級の選手を次々と撃破していきました。そして、ついに決勝進出。相手は、当時最重量(95kg超)級の世界チャンピオンだった小川直也。足車にしとめられ、惜しくも準優勝となりましたが、快挙です。1992年のバルセロナオリンピックでは、直前に吉田秀彦との乱取り中に左膝を負傷してしまいます。ひざの痛みに加え、運動できないことにより減量も思うようにならない困難を乗り越え、金メダルを獲得しました。ケガをした不運を嘆き、ケガを理由に挑戦をあきらめるという道もあったでしょう。それが常識的な判断だったのかも知れません。でも痛みどめ注射を打ちながら、あえて非常識に挑んだからこそ、世の中に感動の渦を巻き起こすことができたのです。
「自分の夢、そんなに簡単に諦められるかって話でしょ」(本田圭佑  プロサッカー選手)
「チャンピオンはジムで作られるものじゃない。彼らの奥深くにある 『何か』で作られるんだ。例えば願望、夢、ビジョン。そのためには どんな土壇場でも耐えるスタミナと、少しばかりのすばしっこさ、そして技術と意志が必要だろう。だが意志の力はどんな技術よりも更なる強さを与えてくれる」(モハメッド・アリ)
「挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束される だろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生など はない」(岡本太郎)