9月30日(金)晴
美濃加茂Sホテルから朝の風景です。天気は良さそうだし「今日も頑張ろう!」
美濃太田駅ー中央線ー各務原
各務原
この辺り一帯は背の高いススキが生え広がる荒涼たる場所でした。
黒澤明監督作品の決闘シーンを想像するような場所だったのかな?
各務原の街は中山道に並行して軍事用飛行場と、戦前軍事用工場(川崎重工)によってできた街です。
駅は無人で、乗降客はあまりいません。車の往来が多い広い道を青空のもとひたすら「西」へ進みます。
各務原航空自衛隊基地
トコトコ歩いていると、突然、「キューン!バリ、バリ・・・。」すごい!大型トラックの暴走だと、身がまえました。」大型トラックの姿はどこにもなく・・・。
すぐに、「バリ、バリ」の音が、ものすごい「キーン」に変わります。
あたり一面に響き渡る「音」で会話はできません。
何事が起きたのかと、空を見上げると・・・。
小さな戦闘機が上昇しています。
何だあれは? と、空を見上げていると・・・。
また大型トラックの暴走の音が始まり・・・・。2機目の戦闘機が飛び上がります。
ここは基地の町なのです。
中山道から200mぐらい離れて、道と並行するように「航空自衛隊基地の飛行場」があるのです。
各務原の飛行場の歴史は古く、1917年(日本で一番古い軍用飛行場)にできました。
戦前、「陸軍の飛行場」、「川崎重工の軍用工場」などがあり、徹底的にアメリカ軍の攻撃対象となり、爆弾が落ちました。アメリカ軍による空襲は一般都市を狙う前に、この各務原などの軍用基地、軍用の工場であったのです。
「中山道に残る古い遺跡は空襲で破壊され、何も残っていません。」
これらのことを、各務原市民公園で、清掃していたお歳を重ねた人に聞きました。
その方は空襲の体験をした人で、目に光るものを拭きながらお話をしてくれました。
市民公園の隣に流れている新境川。戦国時代まではこの川が「美濃」、「尾張」の境でした。桜の季節はとても綺麗なところです。
新加納の一里塚跡
昔ののあたりにはガマガエルがたくさんいたとのことで、ガマガエルを表すものが色々なところにあります。「日吉の蛙」と刻まれています。近くの「日吉神社の境内にある、瓢箪池」には特にたくさんいたそうです。
岐阜城が近くに見えるようになりました。
庵看板
写真のような看板を「庵看板」と言うのです。「明治水」と書かれています。
細畑に一里塚跡一里塚跡の隣の「うなぎ」の旗を掲げる「二つ山」に入りました。
二人とも疲れていたので、ゆっくり、時間をかけて休息したいと思っていました。
「うなぎならちょうどいい、出来上がるまで時間がかかる、この店に入ろう。」と
思い暖簾をくぐりました。
お店に入ると、私たちより年齢が低い人がカンターで、ちびり、ちびりと美味しそうにお酒をいただきながら食事をしています。
私たちは初めの頃は遠慮がちに店の隅に位置どり、うなぎが出て来るのを待っていました。
「この辺の人ではありませんね。どちらから来ました?」と聞きます。
「はい、日本橋からトコトコ歩いて来ました。」
「ほー。東京の日本橋。歩いて、それは本当にご苦労様。」
と言うことになり、お店のご主人も混じって、みんなで盛り上がりました。
「どうです。一杯いかがですか?」と勧められましたが、下戸なものでアルコール類はいただけないと遠慮をし、それでも今までの色々な場面を誠意を持て、お話しました。
私の方で「加納宿であって、なんで岐阜宿と言わないのですか?」と聞くと・・・。
「そりゃあ・・・。加納の方が岐阜より古いからさ!」とお店の主人。
「いや、岐阜の方が加納より古いよ」と先ほどからのお客。
土地の人も、なかなか迷っているようで面白かったです。
※関ケ原の戦の後、家康は「岐阜城」を廃城にて、「加納城」を作りました。
この地は加納城の城下町として賑わいました。宿場としても美濃の国では一番大き
かったのです。
中山道の遺跡は時代的にはほとんど江戸期のものです。可能という地名も江戸期の
もので、それがそのまま残ったのかな?と思ったりしました。
広重 加納宿 右手のお城は加納城です。
岐阜駅前に敢然と、見る人を圧迫してたたずむ「織田信長」。
色々な銅像を見てきましたが、これほど「体」を表したものはないと思います。
黄金に輝く像は他を圧しています。
岐阜駅でJR中央線に乗って、美濃大田駅に行き、駐車場で車に乗って帰宅しました。家には夜10:00前に着くことができました。とても充実した3日間でした。





























































