2016年11月9日(水)うす曇

彦根駅〜近江鉄道〜高宮駅

高宮宿から「トコトコ歩き」の開始

多賀大社大鳥居

 

大鳥居の裏側です。石の階段があり、そこを登り、火を灯すのです。

 

宿場外れにお茶屋さんがありました。

お店のご主人が新聞を読んでいます。

「おはようございます。この高宮は多賀神社の門前町から発達した待ちですか?」

と聞くと、

「多賀神社ではありません。多賀大社です。」

とたしなめられてしまいました。

「どこからいらしたのですか?」

と聞かれ。

「日本橋からです。京都三条大橋まで歩いてゆこうと思っています。近江路に入り、

間も無くつくと思います。」

というと、

「ほーそれは大変ですな!、まずはここでお茶でも飲んで行きなさい。」

「それはありがたい!いただきます。」

するとご主人。あまり大きくないお茶碗を二つ用意します。

ポットのお湯を、丁寧に洗うように何度もお茶碗に入れたり出したりして、温度の調節(?)をしています。ちょうど良い湯加減になってお湯を急須に入れ、それをお茶碗に注ぎ込み、お茶碗に入れたお茶をまた急須に入れ、それを3回ぐらい繰り返し、やっとこさっと子小さなお茶碗に入れて私たちに

「どうぞ、召し上がれ」

と出してくれました。

ポットからお湯を出してから、とても長い時間が経ったように思えます。お寿司屋さんの大きなお茶碗に比べとても小さく感じるお茶碗でお茶を用意してくれました。

少し大きめの「おちょこ」ぐらい大きさの三分の2ぐらいの量です。

飲みやすい温度で、一気に飲んでは一口でなくなってしまいます。

少しづつ口に含みお茶を飲みました。本当に、美味しくて、美味しくて

「今まで飲んでいたお茶はなんだったんだろう!」と思い感謝、感謝です。

 

ご主人がこの辺り(高宮)の昔の話をたくさんしてくれました。

カミさんが棚にあった「飴玉」を見つけ、これをください。と言ったら・・・。

それはうちの商品でないので、持って行きなさい。とお金を取りません。ありがたく頂戴し、ご馳走になったお茶と同じものを一袋買い。お店を出ました。

※家に帰り、お茶屋のご主人の真似をしてお茶を入れたのですが・・・。この時の味

 は出ませんでした。

 

                                     広重    高宮

橋脚だけの「むちん橋」土手の向こうに常夜灯が立ち、高宮宿の家並み、遠景の山は

伊吹山です。

 

江戸期には橋を渡るのは有料のところが多かったようです。犬上川に架かるこの橋は「むちん」の橋でした。

 

「彦根市のモニュメント」右側の夫人は「高宮布」になる麻を背負っています。

 

豊郷小学校旧校舎

なんだこの建物、どこかの大企業の建物かな?と近づいてみると、小学校の校舎と解りました。

昭和12年(1937年)「丸紅」専務古川鉄次郎の寄付により建てられました。

 

校舎の中の階段の飾り物で、「ウサギとカメ」がお話のように階段を登って行きます。たくさんの子ども達が触ったのか?ピカピカに光っています。

現在の豊郷小学校

 

伊藤忠兵衛生家の中庭

伊藤忠兵衛は「高宮布」の行商から身を立て、大阪で呉服問屋「丸紅」を設立し、

神戸で海外貿易を扱う「伊藤忠商事」を設立発展させた。

大きな「伊藤忠」の基礎を築いた人のせいかとしては、とても静かで整理されていますが、コンパクトで質素でした。

 

伊藤忠と丸紅、日本の大きな大きな二つの商社のルーツがここにあったのです。

日本ではこの2社とも、現在でも大きな存在で、経済の柱として活躍しているわけです。「近江商人」の力の大きさを知ることができました。

 

 

              広重  愛知川

 

愛知川の「びんてまり」

愛知川駅の待合室に飾ってありました。作り方を聞きましたが、よく解りません。

瓶の中にどうやっててまりを入れたのか本当に不思議です。

 

愛知川〜近江鉄道〜彦根

 

彦根のホテル

 

夕方車に乗って、食事場所を探し、焼肉屋に入りました。

近江牛のヒレ肉を食べました。少し高かってけれど・・・。

「さすが!近江牛!美味しかったです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パレット 

北浦和の東、北宿通りを700m進んだ所に我が家があります。

10年前ごろまで「画材の店パレット」という画材屋でした。浦和には絵を描く人(私もその一人)がたくさんいて色々な人が画材を購入しにパレットに寄ってくれました。

でも、店を維持することは大変なことです。店を開いている間は誰かがいなければなりません。遊び好きの私たちは店を留守にしがちでした。私が退職した時に店を閉じることにしました。

 

この時に、店を少し改造をしてギャラリーを作り、そこを町の人たちの「溜まり場」としました。

 

この溜まり場には地域の「医療生協」の皆様。「浦和北9条の会」の皆様。

「埼玉平和美術の会」の皆様たちがパレットに集まり会の運営などなどを話し合ったりしています。

 

私たち夫婦は二人とも、日本国憲法はとても大切で、とりわけ9条は世界に誇る

「平和宣言」と思っています。

 

私たちのパレットの使用条件はたった一つ「世の中の暮らしを良くしたい」と思っている人たちが使う場所としました。

 

毎年11月の3日間。パレットで「浦和北9条の会」主催の「秋の集い」を開いています。地域の人たちがたくさん集まる私たちにとっては大きな、大きな行事です。

2016年の秋の集いは11月3日(木)〜6日(日)の4日間でした。

「つどい」の中での「うたごえ」の様子。歌のリードを私がしています。

「つどい」の中での「子どもの広場」の様子。

 

 

この「つどい」の準備のため、「トコトコ歩き」をすることができませんでした。

「つどい」が終わって11月8日に意気揚々と「近江路」へと出発しました。

 

2016年11月8日(火)曇時々雨

醒ヶ井宿のお菓子屋の「泡子堂」のおばあさんに「マユハケオモト」の鉢をいただくことになっていることもあり、少し遠くですが車で行き「トコトコ歩き」をすることにしました。

朝4:00に家を出ました。秋も深まり、家を出るときは辺りは真っ暗です。

 

東名高速道路を西に向かいました。米原ICで高速道路をおりて醒ヶ井駅に行き、醒ヶ井駅の駐車場に車を置き、リュックを担いで曇り空のもとトコトコ歩きを始めました。

(あらかじめJR醒ヶ井駅に問い合わせ、駐車場は「駅利用者」は使っていいことにな

 っていることを確認していました。)

 

秋もくかまり紅葉の季節です。

 

 

久禮の一里塚

「父ちゃん!いつも写真を撮ると口がぽかりと空いているよ。少しはまともな顔をし

 な。」だって、

口をきちんと結んだのですが・・・。間抜け顔は治らないようです。

 

番場宿

            広重   番場

 

ご存知「長谷川伸」の名作「瞼の母:番場の忠太郎」の番場宿です。

「上の瞼と下の瞼を閉じリャ。優しいおっかさんの姿がみえるんでイ・・・。」

 

 

問屋場跡

米原湊を控えた「番場宿」は問屋場が6件ありました。

 

蓮華寺

大きなお寺です。1333年、足利尊氏に敗れた、北条勢の六波羅探題軍(432人)と北条仲時が本堂前にて自刃をし、鎌倉幕府終焉の地とも言われています。

 

北野神社

 

摺針峠一里塚跡

 

             広重   鳥居本

広重は、某鼓動と琵琶湖を描いています。磨針峠からの眺めは中山道随一と言われています。

しかし、私たちは、ここで雨が激しくなり傘をさしての歩行となり、とても景色を眺める雰囲気にはなりませんでした。

 

望湖堂跡

参勤交代の大名、朝鮮通信使、皇女和宮が立ち寄り、琵琶湖の絶景を楽しみ、

するはり餅を賞味しました。

 

彦根市に入りました。

 

鳥居本の三赤=①赤玉神教丸(胃薬) ②合羽(渋柿の赤) ③スイカ

鳥居本とはかって宿内にあった多賀大社の鳥居に由来しています。

鳥居本の本陣跡

 

赤玉神教丸有川家

赤玉神教丸の製造、販売を今もしています。

腹薬の赤玉。私も子供の頃飲んだことがあります。お腹が痛くなると飲まされました。

もちろん、購入しました。この日の晩、焼肉を食べ過ぎて赤玉12粒飲みました。

 

「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」の看板を掲げている「合羽所木綿屋跡」

 

「専宗寺の太鼓門」

自転車に乗った青年が写真を撮っていたら、話しかけてくれました。町のボランティア活動ボランティア活動をしている人で、この門の説明を丁寧にしてくれました。

 

この辺りは石田三成の佐和山城の近くで、現在でも、三成を慕う人が多くいると話してくれました。

 

この門の天井は佐和山城の城門を持ってきたものと教えてくれました。

 

テレビで、三成は「悪役的」に扱われることが多いのですがやはり地元です。三成が今でも地域の人たちに受け入られていることを知りました。

 

この頃になんとか雨は止みました。

 

小野小町塚

「小野小町」この人ほど日本の各地に伝説が残っている人はいません。

ここでは、出羽郡司小野美実は奥州に下る際、小野宿に泊まり、ここで生まれたばかりの女の子をもらい受け、その子を出羽まで連れて行きました。その子が成長して、小野小町になったと言われている。と記されています。でも、小町には色々な説があり定かではありません。

 

なんとか近江鉄道の高宮駅にたどり着きました。

高宮駅の待合室に、地域の人の様々な作品が展示してありました。ユニークで、世相を感じさせる作品です。

 

高宮駅ー近江鉄道〜米原ーJR東海道本線ー醒ヶ井駅

 

醒ヶ井駅の駐車場で車に乗り換え彦根駅近くの「コンポートホテル彦根」に行きました。

 

 

 

 

 

 


2016年10月13日(木)晴

3日分のの荷物のスーツケースを転がし、「トコトコ歩き」用のリュックを背負い、岐阜駅まで行きました。

スーツケースを駅のロッカーに入れて、東海道本線に乗り関ヶ原駅に行きました。

関ヶ原宿より「トコトコ歩き」の開始です。

 

9:00関ヶ原の駅を出発

日差しが柔らかく、コンデションもよく、「トコトコ歩き」の開始です。

 

関ヶ原宿の本陣跡

 

本陣跡近くに「西首塚」がありました。戦死者が数千人と書かれています。

関ヶ原の合戦は大きな大きな戦いであったわけです。

 

壬申の乱以後に設けられた関

 

「壬申の乱」は大海人皇子と大友皇子の間に起きた「乱」で、以後の日本の歴史を決定する大きな出来事であったのです。

不謹慎な私はこの出来事を勝手に、額田王(ぬかだのおきみ)をめぐる「三角関係のこじれ」と解釈していました。

現在、関の藤川(藤古川)は「ホタルの里」として地域の人たちの憩いの場所となっています。

 

山中村にある間の宿の石碑 右手の急な山に「大谷吉継」の陣がありました。

 

中山道は東海道新幹線をくぐるっています。

義経の母「常盤御前」の墓

常盤御前は鞍馬山から東国に向かった牛若丸(義経)を追い、この地で土賊にあい、殺されたと記しています。

 

今須峠 どんな峠でも登りはきついものです。峠を越えると今須の宿場です。

 

今須の一里塚

 

                               広重    今須 

 

  これはガレージの扉に書かれていた絵です。なかなかの力作です。  

 

 

金毘羅大権現永代常夜灯

京都の卸し問屋河内屋は荷を紛失しました。金毘羅大権現に祈願したところ

「今須宿に荷がある」とのお告げがあり、無事に荷を探すことができた。そのお礼に

常夜灯をこの地に寄進しました。

常夜灯ですから、毎日菜種油を灯すわけです。その油代も合わせて寄進したわけです。

 

車返しの坂

車は自動車ではありません。「牛車」です。「荒れ果てたひさしに月がかかり綺麗だ」と聞き、わざわざ来たのですが、修復されて、朽ち果てたひさしは無いと聞き

引き返したとの話からこの名前がついたとのことです。

 

芭蕉の句碑

「正月も 美濃と近江や 閏月」芭蕉の「野ざらし紀行」の中の一句です。

「野ざらし紀行」を経て、「奥の細道」へとつながっていくわけです。

 

「美濃の国」と「近江の国」の境です。一本の細い溝が境界線です。

美濃の国に宿泊した人と近江の国に宿泊した人が隣との境が狭かったために、お互いに寝ながら話ができたことから、「寝物語の里」と呼ばれていました。

現在も「岐阜県」と「滋賀県」の県境でもあります。

 

いよいよ私たちの「トコトコ歩き」も、美濃路から近江路になります。

 

近江路に入ってすぐに、古い家の様相が違っているのを感じました。

「ベンガラ」で建物の「木」の部分を着色しています。晴れた日で、青い空とベンガラの色が素敵に引き合っています。

遠慮がちに写真を撮っていたら、家の主人が出ていらしてベンガラについて説明をしてくれました。「好きなだけ写真を撮っていいよ」と言われました。

 

平安時代から続く木造建築を保護するための大切な技法です。平安神宮、春日大社の「朱」の色はこの基本的にはベンガラを塗ってできているのです。

 

柏原宿に入ります。

 

八幡神社 空の色が素敵です。

 

柏原宿

 

江戸期の宿場の様子が偲ばれる佇まいです。古い家並みが中山道に溶け込んでいます。

 

柏原歴史館の屋根瓦が印象的です。時間がないのでスケッチはできませんでしたが

家に帰り、写真を見ながら絵を仕上げました。(80号・油彩)

 

お昼に歴史館の隣の「めしどころ」(中山道には食べ物屋はほとんどありません。)「喫茶『柏』」に入りました。名前は素敵ですが、おばあちゃんたちの「溜まり場」という感じです。地元で採れた野菜、地元で作られた調度品などがわずかにありますが・・・。店の中には年齢を重ねたおばさん達で賑やかです。(トグロを巻いているという感じです。シツレイ!)

 

「旅をしているのですね、ここに座りなさい。」と、無理やり二人分の区間を作ってくれます。

「それではお邪魔します。」

と、少し狭い空間にカミさんと座りました。

さて、何を注文しようかな?とあまりたくさんないメニューを見ていると、

 

「これにしなさい!」と勧めてくれたのが「やいとうどん」です。

うどんのどんぶりに卵を引いて、その上にとろろ昆布を「もぐさ」にみたて山盛りに積んで、その上に紅ショウガを乗せたうどんです。お灸を連想するように「やいとうどん」と名付けていますが、私には女性の胸を連想するおうどんでした。安くて、

おいしかったです。

 

「この時間に、おばさん達はここに来て、嫁さんの悪口言ってるのかい?」

 

みんなでゲラゲラ大笑いしながら楽しい時間を過ごすことができました。

 

伊吹堂亀屋佐京店

                                    広重   柏原

「伊吹もぐさ」を扱う上の写真の「伊吹堂亀屋佐京店」を描いています。

右手に「福助」が描かれていますが、この福助の人形は時代が進んだ今でも現役で、このお店にあります。

 

このお店に入り、「もぐさ」を購入しました。

※トコトコ歩きでは色々なお土産を買い、家に帰ってから近所の人に配ったりしてい

 ました。この「もぐさ」も家に来た人たちに配ったのですが、このお土産は思いの

 ほか話題になりました。

 

柏原の宿場を過ぎて、すぐに「柏原の一里塚」があります。深まりゆく秋を感じました。

 

田んぼはすっかり黄金色です。多くの田んぼで刈り入れが進んでいます。

 

醒ヶ井宿の入り口です。今までの雰囲気が変わり、澄んだ水の流れを見ながら進みます。

 

醒ヶ井は澄んだ水の流れと生活をしています。

 

梅花藻(ばいがも)澄んでいる流れの中に咲く藻の花です。

「マユハケオモト」

お菓子、特に「あんこ」の好きなカミさんがどこで調べたのか、醒ヶ井には

「泡子堂」というお菓子屋があり、そこの「六方焼」が美味しいと言われているので

「最後にここに寄ろう!」と言い出しました。

くたくたに疲れていたので「えっ、まだ行くところがあるの?」と不機嫌に答えたのですが・・・。「一度言い出したら絶対に引かない」性格をよく知っている私はすごすごと、言われるままに「泡子堂」に行きました。

お店は「駄菓子屋的」な素朴なお店です。

いつもの通り、六方焼を二つ買って、お店で食べましたが・・・。とても美味しいのです。疲れた体に甘さが染み込みーーー。

「うーん、よし。12個買っていこう!」ということになりました。

 

ふと窓辺を見ると、素敵なオモトがあります。

「このオモトどちらに行くと買えるのでしょうか?」

「これかい。欲しければあげるよ」と言ってくれます。

「私たちはこれから醒ヶ井駅に出て、岐阜に行きます。岐阜から名古屋に出て、

新幹線で東京に行くので、これを持って行くことができません。後日必ずこの辺りを車で通ります。その時にこのオモトをいただきます。」

と言って店を出ました。

 

※この泡子堂の「六方焼」はその後、電話で2回ほど注文をし、お客さんに出してい

 ます。とても評判はいいです。オモトも元気に成長しています。

 

3日間の充実した旅が終わりました。

 

醒ヶ井駅〜岐阜駅まで電車に乗り、岐阜駅でロッカーでスーツケースを取り、

岐阜〜名古屋 

名古屋〜品川(新幹線)

品川〜浦和

浦和〜北浦和 北浦和駅には23:00を過ぎていました。

 

疲れたけど「やりとげた」充実感を感じながら家に帰りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年10月12日(水)晴

6:00=起床

7:00=バイキングで朝食

 

岐阜駅から東海道線で大垣駅まで行き、大垣から「JR美濃赤線」で赤坂駅まで行き、そこから「トコトコ歩き」をすることになっていました。

 

大垣駅までは順調でしたが、いつものことで、大垣駅を降りてモタモタしていて、

ホームに着いた時に「赤坂行き」の電車が出てしまいました。この電車は1時間に一本しか出ていません。

そこで昨日の夕方と同じでタクシー(2000円)で赤坂宿に行くことにしました。

 

金生山で産出される石灰石でセメントを作って赤坂駅から鉄道輸送していたため、たくさんの引込み線があり、セメント工場が稼働していた時は貨物輸送も盛んであったと地元の人に聞きました。稼働が終わり、たくさん貨物駅の遺構が残っています。

 

8:30=赤阪宿より「トコトコ歩き」を始めました。

      広重   赤阪 杭瀬川にかかる土橋を描いています。

 

赤坂宿は杭瀬川に「赤坂港」を開きこの辺りの海運(水運)の中心として発展しました。

四ツ辻(中山道と養老街道との交差点)

中山道には昭和初期に建てられた立派な建造物があり、この街道の趣の深さを感じます。しかし、建物に住まいしている人は「維持をするのが大変です。」と語りながらも、その生活を楽しんでいるように見受けられます。

 

昼飯大塚古墳

東海地方では最大の古墳です。

大きな古墳で、てっぺんから伊吹山、大垣の街がよく見えます。

高いところに来ると、「ずいぶん遠くまで来たんだなー。」

 

「昼飯」(ひるい)地名の由来

わたし的には「ひるめし」のままの方がかえって、インパクトがあったのになー?と思ったりしています。

 

垂井宿

 

地蔵堂

「木枯紋次郎」さん達はこんな所を宿屋にしていたのかな?

 

旅籠「亀丸屋」1777年に建てられました。

 

本龍時・芭蕉が1691年に冬ごもりをしました。

 

 

               広重   垂井

 

松島稲荷神社

松島は江戸期に、中山道の松並木沿いの小さな村であった。昔は限られた土地や小村を「島」と呼びました。美しい「松のある島」松島に伏見稲荷をお迎えし、お祀りしました。

 

東海道本線出屋敷踏切を越えました。

 

伊富岐神社鳥居・奥の踏切を電車が通過しているのがわかりますか?

グットタイミングでした。

 

いよいよ関ヶ原

「山内一豊」の陣地跡があります。いいいよ関ヶ原の合戦の地に入ったわけです。

 

 

何年か前、関ヶ原合戦場には来たことがあります。その時の感想を交えながら記録してみます。

 

東軍家康は「桃配山」。西軍三成は「笹尾山」。

 

家康は当初赤坂に陣を置き、「桃配山」から出撃をし、合戦地近くに陣を移し陣を移し戦いました。

桃配山の陣地は当時と全く地形が変わっていますが、山の陰に位置し、戦況を知るのにいい場所とは言えません。(私がそう思ってのです。)

 

一方、三成の笹尾山。関ヶ原を見渡すのには「ここが一番」という所です。

戦況は手をとるようにわかります。

 

でも、結果は皆様が知るとうりです。

 

そんなことを考えながら、関ヶ原の駅に進みます。

 

 

               広重  関ヶ原

 

関ヶ原駅〜東海道本線〜岐阜駅

関ヶ原の駅にこんな看板がありました。

戦国時代のスターのオンパレードです。

日本の合戦で最大規模のものです。大きな大きな看板に当時の様子が偲ばれます。

 

夜の岐阜の街

お酒にあまり縁のない私ですが、[♪ああ ああ 柳ヶ瀬の夜に泣いている♪」の柳ヶ瀬が岐阜の街の中あることは知っています。

 

ホテルの最上階で夕食を済ませて、「柳ヶ瀬」に行きました。

人通りはまばらです。灯だけはこう、こう、と輝いています。足元に有名な歌詞のプレートがありました。

 

時間が早すぎたのかな?と思いましたが・・・、駅近くなると焼き鳥の匂いが狭い道に漂っています。「柳ヶ瀬は灯だけが目立つ街」というのが私の印象です。

 

町外れのお店に入って少しばかり「おみやげ」を買いました。

「昔は賑やかだったんですよ!」と寂しげに言っていました。

 

 

 

 

 

2016年10月11日(火)晴

 

 4:10=起きる

 6:10=東京駅」から新幹線で名古屋

 8:18=名古屋着

 8:27=名古屋発:東海道本線

 8:51=岐阜着

 

岐阜駅で・・・。

さすがに県庁のある駅です。とても大きく、人もたくさんいます。美濃の国の中心の駅です。

電車から降りて、大きめのコインボックスを探します。そこに、二人のスーツケース(2泊3日に必要なものが入っています。)を入れ、「トコトコ歩き用のリュック」には雨具、水筒、歩くのに最小限のものを入れて肩に担ぎます。

 

今回は岐阜のワシントンホテルに2泊します。

 

9:00〜加納宿から「トコトコ歩き」赤坂宿を目指す。

 

岐阜の街はJR東海道本線を挟んで、全く異なる町が2つあるように思えます。

 

岐阜駅北口前の織田信長さんの像です。

前回のブログにもこの像を載せました。一番高いところのちょんまげにカラスが止まったりしたら、もっといい写真になると思い待っていましたが・・・。ダメでした。

 

岐阜駅の南側です。

 

北は岐阜城、県庁をはじめとする県の行政機関、各種文化施設、そして、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」の柳ヶ瀬があり、それこそ県の中心としての佇まいがあります。

 

南は「加納宿」を中心とする「中山道文化」です。

でも、信長の本拠地としての北の文化とは比べようもなく、北の華やかさに比べ、遠慮しがちに佇んでいるように思えるのです。

 

岐阜県(美濃国)に入って、どうも不思議なことがあります。知識の浅い私にはどうも理解ができません。

 

加納宿=岐阜市、 美濃太田宿=美濃加茂市、 大井宿=恵那市です。

 

私の頭の中の「日本地図」では、「岐阜」、「美濃加茂」、「恵那」は知っていましたが、「加納」、「美濃太田」、「大井」は入っていません。関東に暮らす私たちの常識は「岐阜市」、「美濃加茂市」、「恵那市」は知っていても、そこにある宿場の名前までインプットされている人はあまりいないと思うのです。

こんなことをくどくどと考えながら・・・。赤坂宿を目指しました。

 

 

長良川の土手の近くに、乙津寺があります。

境内が広く、休憩にはとてもいい場所でした。

このお寺に寄って、中山道を外れて、長良川の土手に出ました。

乙津寺近くに、「小紅の渡し」があり、旅の人はそれを利用して長良川を渡っていました。

2017年の秋にこの「渡し」が復活したとのことです。私たちは「小紅の渡し」の跡を見るだけでした。

 

長良川

                                英泉 【河渡】長柄川鵜飼舟

 

長良川 鮎が住む川で、清流です。橋の上から鮎(?)が泳いでいるのが見えました。

河渡橋を渡りました。

 

河度の渡し跡に建つ小さな祠

 

昔、この辺りは水害で悩まされました。それを克服した代官をたたえる碑です。

 

美江寺宿

 

               広重  みゑじ

広重は美江寺宿として犀川を描いています。犀川は湧き水を集めた川で綺麗です。

 

美江寺とは「美しき長江のごとくあれ」とつけられた地名です。

 

日本のどこにでもある静かな農村風景が広がります。そんな当たり前の風景の中に、

古い「お堂」、「神社」、「お寺」がたたずんでいます。

千手観音堂

千体寺、千体仏の説明

神明神社

 

道を失いました。

巣南中学校までは順調に来たのですが・・・。中学校前を右に行く道に気がつかず

まっすぐ進んでしまいました。

揖斐川の「鷺田橋」を渡らなくてはいけないのに、下流の「揖斐川橋」を渡った時に

道を間違えたことに気がつきました。

間違えた時に、揖斐川の土手を戻ればよかったのですが、「赤坂宿」になんとかつきたいと思い、田んぼを横切ったりしたために、目的地からさらに離れてしまったようです。

 

全く知らない土地です。「あっちの方らしい?」これしかわかりません。

 

 

 

全く知らない土地です。「あっちの方らしい?」これしかわかりません。

コンビニがあったので、「赤坂はどちらでしょうか?」と聞きましたが・・・。

離れていて、うまく説明できないようです。

 

駐車場で車を洗っていた人に

「あのー、東赤坂の駅に行くにはどちらに行けば良いのでしょうか?」

「東赤坂。だいぶ方向が違うよ。中山道を歩いていて道に迷った?そりゃお気の毒に

私もその方向に行くから、この車に乗りな!」と親切に誘ってくれました。

 

「地獄に仏」とはこのことです。夕暮れ時で、早く赤坂宿につきたいと思っていたところです。

 

「えっ!本当に良いのですか?それではお言葉に甘えて、お願い致します。」と車に乗せてもらい「東赤坂の駅」まで行きました。

 

「本当に、本当に、本当に助かりました。」

 

 

赤坂宿に着いた時には日が沈んでいました。

 

赤坂駅は昔鉱石などを積むためにできた駅らしく、引込み線がたくさんあり、駅舎も賑やかだった頃の名残をとどめています。しかし、近年はこの駅を利用する人が減り

人もまばらで、無人の駅です。

赤坂駅から大垣駅に出て岐阜駅に行くのですが、「赤坂〜大垣」の電車は「ひと列車」が短い距離を行ったり来たりしています。1時間に1本しか出ていません。

私たちが駅に到着した時に電車が出てしまいました。

呆然としていると、「電車が行ってしまいましたねー」と私たちに駅の近所の人が声をかけてくれ、「それじゃータクシーを呼びなさい。」と言ってくれました。

携帯でタクシーを呼び出し、大垣駅まで乗り、大垣から岐阜駅まで東海道本線に乗りました。

 

岐阜駅のロッカーで荷物を出し、今夜の宿のワシントンホテルまでトコトコ歩きました。

 

朝4:00から行動しているわけですから体はくたくたに疲れています。ホテルの外で食事を取る気力はもうありません。ホテルの最上階のレストランに入りました。

とても美味しく、値段も手頃で助かりました。