2016年10月12日(水)晴

6:00=起床

7:00=バイキングで朝食

 

岐阜駅から東海道線で大垣駅まで行き、大垣から「JR美濃赤線」で赤坂駅まで行き、そこから「トコトコ歩き」をすることになっていました。

 

大垣駅までは順調でしたが、いつものことで、大垣駅を降りてモタモタしていて、

ホームに着いた時に「赤坂行き」の電車が出てしまいました。この電車は1時間に一本しか出ていません。

そこで昨日の夕方と同じでタクシー(2000円)で赤坂宿に行くことにしました。

 

金生山で産出される石灰石でセメントを作って赤坂駅から鉄道輸送していたため、たくさんの引込み線があり、セメント工場が稼働していた時は貨物輸送も盛んであったと地元の人に聞きました。稼働が終わり、たくさん貨物駅の遺構が残っています。

 

8:30=赤阪宿より「トコトコ歩き」を始めました。

      広重   赤阪 杭瀬川にかかる土橋を描いています。

 

赤坂宿は杭瀬川に「赤坂港」を開きこの辺りの海運(水運)の中心として発展しました。

四ツ辻(中山道と養老街道との交差点)

中山道には昭和初期に建てられた立派な建造物があり、この街道の趣の深さを感じます。しかし、建物に住まいしている人は「維持をするのが大変です。」と語りながらも、その生活を楽しんでいるように見受けられます。

 

昼飯大塚古墳

東海地方では最大の古墳です。

大きな古墳で、てっぺんから伊吹山、大垣の街がよく見えます。

高いところに来ると、「ずいぶん遠くまで来たんだなー。」

 

「昼飯」(ひるい)地名の由来

わたし的には「ひるめし」のままの方がかえって、インパクトがあったのになー?と思ったりしています。

 

垂井宿

 

地蔵堂

「木枯紋次郎」さん達はこんな所を宿屋にしていたのかな?

 

旅籠「亀丸屋」1777年に建てられました。

 

本龍時・芭蕉が1691年に冬ごもりをしました。

 

 

               広重   垂井

 

松島稲荷神社

松島は江戸期に、中山道の松並木沿いの小さな村であった。昔は限られた土地や小村を「島」と呼びました。美しい「松のある島」松島に伏見稲荷をお迎えし、お祀りしました。

 

東海道本線出屋敷踏切を越えました。

 

伊富岐神社鳥居・奥の踏切を電車が通過しているのがわかりますか?

グットタイミングでした。

 

いよいよ関ヶ原

「山内一豊」の陣地跡があります。いいいよ関ヶ原の合戦の地に入ったわけです。

 

 

何年か前、関ヶ原合戦場には来たことがあります。その時の感想を交えながら記録してみます。

 

東軍家康は「桃配山」。西軍三成は「笹尾山」。

 

家康は当初赤坂に陣を置き、「桃配山」から出撃をし、合戦地近くに陣を移し陣を移し戦いました。

桃配山の陣地は当時と全く地形が変わっていますが、山の陰に位置し、戦況を知るのにいい場所とは言えません。(私がそう思ってのです。)

 

一方、三成の笹尾山。関ヶ原を見渡すのには「ここが一番」という所です。

戦況は手をとるようにわかります。

 

でも、結果は皆様が知るとうりです。

 

そんなことを考えながら、関ヶ原の駅に進みます。

 

 

               広重  関ヶ原

 

関ヶ原駅〜東海道本線〜岐阜駅

関ヶ原の駅にこんな看板がありました。

戦国時代のスターのオンパレードです。

日本の合戦で最大規模のものです。大きな大きな看板に当時の様子が偲ばれます。

 

夜の岐阜の街

お酒にあまり縁のない私ですが、[♪ああ ああ 柳ヶ瀬の夜に泣いている♪」の柳ヶ瀬が岐阜の街の中あることは知っています。

 

ホテルの最上階で夕食を済ませて、「柳ヶ瀬」に行きました。

人通りはまばらです。灯だけはこう、こう、と輝いています。足元に有名な歌詞のプレートがありました。

 

時間が早すぎたのかな?と思いましたが・・・、駅近くなると焼き鳥の匂いが狭い道に漂っています。「柳ヶ瀬は灯だけが目立つ街」というのが私の印象です。

 

町外れのお店に入って少しばかり「おみやげ」を買いました。

「昔は賑やかだったんですよ!」と寂しげに言っていました。