大正元年(1912年)8月30日は渋沢成一郎(渋沢喜作)が亡くなった日です。
渋沢栄一の従兄弟として知られ大河『青天を衝け』では高良健吾さんが熱血青年を演じられてました。
彰義隊のリーダーに任命されたり、戊辰戦争にも参戦。
栄一とは袂を分かち、過ごしたハードな生涯を送った。栄一が徳川昭武の随行で欧州に行っている間に幕府軍に従軍、函館戦争に敗れ投降し投獄。明治4年(1871年)に釈放されると、栄一の推薦で大蔵省に入省します。翌年には蚕業調査のためヨーロッパへ渡航し、帰国後の明治6年(1873年)に大蔵省を退職した。その後は実業家として渋沢商店を立ち上げ、廻米問屋や生糸売込問屋を経営。東京商品取引所の理事長を務めるなど、財界で活躍した。しかし、米相場や銀相場で大きな損失を出し、最終的に栄一の支援を受けて隠居。渋沢栄一と同じような人生をなぞった。 #べらぼう #大河ドラマ

【家康、正妻を殺害】1579年8月29日
徳川家康が正妻築山殿を、武田氏内通の嫌疑により遠江富塚で野中重政に命じて殺害する。ドラマなどでは当時日の出の勢いの信長は、既に同盟と言うより家臣扱いだった家康に無理難題を言って、夫婦仲の悪い信康と信長娘の讒言を信じ殺害を命じた。全て信長の傲慢とサイコパスと言う描写。しかし事実は違うと言う説が近年多い。桶狭間の戦い後、自分の叔父義元を殺した信長、そして協力者家康、今川の滅亡などで築山殿の不満不信は家康に向かい、築山信康は岡崎、家康は浜松と別居状態だった。家中も2派に分れ崩壊の危機だった。そこで謀反の罪を着せるのだが信康正妻は信長娘と言う事もあり、信長の許可を得たと言うのが新説。歴史は勝者が書き換える。信長のせいにしている #べらぼう #大河ドラマ

建長5年(1253年)8月28日は曹洞宗の開祖である道元の命日です。
いわゆる鎌倉仏教の一つであり、一般的には禅宗と呼ばれる一派。
座禅を通じて自己を救うという考え方で、元々は貴族の生まれから比叡山で修行を始めました。
それがなぜ自ら開祖となったのか?8歳の時に母を亡くし、その際に香の煙を見て人生の無常を感じ、出家を決意したと伝えられています。12歳で比叡山にて出家し、修行。何分宗教ですので誇張された部分はご容赦を。「宋の国にお釈迦様の坐禅を正しく伝える禅の教えがある」という助言を受け、1223年に禅の教えを宋で学んだ栄西禅師の弟子である明全和尚と共に宋へ渡る。1227年に宋から帰国しました。帰国後、建仁寺で自らが習得した「正しい教え」を広めようとしましたが、比叡山の仏教勢力からの妨害を受けます。そのため、1233年には京都の深草に興聖寺を開きましたが、ここでも従来の仏教勢力による圧迫を受けました。

その後、道元禅師は俗弟子である波多野義重の招きにより越前の地へ赴き、1244年に大仏寺を開きます。この大仏寺は2年後に「永平寺」と改称されました。 #べらぼう #大河ドラマ