元和9年(1623)7月、徳川家光が、父・秀忠のあとを継いで三代将軍の座に。この時、20歳。秀忠の側近から厳しい教育を受けていたが、政治経験もなく、結婚もしていない。
京の二条城で将軍宣下を受けた家光は、翌月、後水尾天皇に対する将軍宣下のお礼言上のため、初参内。
御三家(尾張・紀州・水戸徳川家)、有力大名、旗本500数名を従えた絢爛豪華な行列は京の人々を驚嘆させた。
参内から3日後、
家光の三代将軍就任を祝うため、諸大名が二条城にいる家光のもとへ。家光は外様大名だけを集め言った。
「祖父・家康、父・秀忠は貴殿らと同列の大名であった時期もあり、多少の遠慮があったかも知れない。
だが余は生まれながらの将軍である。
余は貴殿らに対して、遠慮するものはない。
これからは譜代大名と同じく家来として遇するからそのように心得よ。
もし不承知の者がいるならば、国元へ帰って謀反の準備をいたせ!」
謙虚な姿勢は微塵もない。
「売家と唐様で書く三代目」川柳は三代目が銀の匙をくわえて生まれてくることを揶揄している。家光も生粋のボンボンであり戦国の家督は闘争で実力で奪う事から、家康の命で長子相続の原則後、初めての徳川宗家当主となる。これ以降は生まれながらに嫡子とされ当主親政は形骸化され官僚政治となった。

【江戸御打ち入り】1590年8月1日
徳川家康が秀吉の命により父祖の領地を離れ関東入国(江戸御打入り)。また豊臣秀吉が田中吉政を岡崎城主、池田輝政を三河吉田城主に任じ、上杉景勝には出羽の検地を命じる。
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃といった父祖以来の領国を離れ、旧北条領の関東へ転封され、江戸城へ入った出来事を指します。
この「江戸御打ち入り」が、のちの江戸幕府260年の出発点となりました。「徳川実記」では100戸程度の寒村と書かれていますが実際は太田道灌以来関東管領上杉氏の拠点、そこまで寂れてはいなかった。しかし一面葦の生える湿地帯、大規模な開発が必要だった。神田山を崩し日比谷入江を埋め立て城下町を作った。度々洪水を起こす利根川は今の荒川の川筋だったが銚子に東遷させる。

114年前、明治天皇が崩御しました。同時に大正天皇践祚の上、大正に改元された日。実際の崩御時刻は2時間ほど前の前日午後十時半頃。
日清・日露戦を経て、欧米諸国との不平等条約改正が成し遂げられ列強入りを見届けた形になります。まさに近代化の象徴であり維新の成果を結実させた天皇でした。遺言により京都の伏見桃山陵に埋葬されます。古式を模範として上円下方墳となり、千数百年ぶりに埴輪が焼かれた陵墓となりました。
この天皇崩御に際し乃木希典が殉死。この事件の衝撃は夏目漱石の『こゝろ』や森鷗外の『興津弥五右衛門の遺書』などの文学作品にも影響を及ぼしました。
司馬遼太郎先生「坂の上の雲」新時代と言う雲を掴みたい若者と、西洋列強入りを目指し富国強兵に突き進む姿、その物語の最後が日露戦争で締めくくられている。天皇はその終結を見た後に崩御した。活力ある時代が終わり、暗黒の昭和に向かう事になる。今話題の皇室典範改正、天皇の英訳のエンペラーは明治天皇にふさわしく戦後の象徴天皇には合わない。キングが正解だ。インペリアルと言う軍司令官が語源であるエンペラーも改正した方が良いのでは