空間の中を「わたし」が動いている。
という発想から、
「空間そのもの」が私(意識)であると考えてみましょう。
これは、大乗仏教の『唯識論』。
例えば、
「レストランという空間」の中に「わたし」が入ったら、
「噛む」という動作が『私』に起こる。
これは、私が起こした動作じゃなくて、
空間が『私』に起こさせた動作。
だって、「トイレという空間」では起こらない。
トイレという空間に入ったと同時に、
何故か「下あご」と「上あご」の筋肉が動き出す人は居ない。
あなたの筋肉(あご)を動かしたのは「レストランという空間」なのだ。
温泉という「空間」に「あなた」が入ると、
「ふー♪」とか「うえー♪」とか「いいゆだー」とか、
そんな音声がのど元から出てくる。
これは、「レストランという空間」では出て来ない。
ある特定の空間の中に「人間」が入った時、
人間は「その空間に準じた動き」をする。
それは空間に合わせて「わたし」が動いてるんじゃなくて、
空間が「わたし」を動かしているのだ。
それが、昨日の記事のメタ認知の状態。
私が思考を選んでいるんじゃなくて、
空間に「思考を選ばされている」。
唯識論ではそれを「阿頼耶識(あらやしき)」という。
以下、画像も含めてウィキペディア様より。
◆感覚の5つ(前五識)
眼識(げんしき、視覚)
耳識(にしき、聴覚)
鼻識(びしき、嗅覚)
舌識(ぜつしき、味覚)
身識(しんしき、触覚など)
◆その次に自意識
六番目なので「第六意識」
◆その下に末那識(まなしき)
寝てもさめても自分に執着し続ける心。
熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動して自己に執着するという。
ユングで言えば潜在意識?
◆さらにその下に阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)
この根本の識が前五識・意識(第六意識)・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
◆阿頼耶識と種子のはたらき
人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、
その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、
阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。
これを薫習(くんじゅう)という。
ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる。
このため阿頼耶識を別名『蔵識』とも呼ぶ。
阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。
ーウィキペディア様「唯識論」より。
空間そのものにデータが保存されている。
それが「蔵の意識」あらやしき。
くら(空間)そのものが、意識を持っている。
そう考えると、人間がくらの中で「自発的に考える」のではなく、
くら(空間)によって、違うデータがダウンロードされる。
僕らの脳は、自発的に情報を生み出す能力がないことが分かっている。
「読み取り機(レシーバー)」なのだ。
空間にある「情報データ」を、脳が読み取って、
その通りに筋肉を動かし、神経を動かし、意思の決定をする。
例えば、
誰にも自分の「思考」を止めることは出来ない。
はい、いま、何も考えないでみて。
無理でしょ?
止められない「思考」。
理由は、自分で生み出してないから。
レシーブされちゃうから。
自分で生み出してるものなら、自分で止められる。
自分で生み出して無いから、自分では止められない。
あなたは今日、色んな場所へ行くだろう。
その「くら(空間)」にこそ、あなたの本体が居る。
あなたは「空間そのもの」なのだ。
そういう視点でこそ、昨日の記事の『メタ認知』状態になれる。
あらやしきで、
もう一回、昨日の記事を読んでみて。
空間の中を「わたし」が動いている。
という発想から、
「空間そのもの」が私(意識)であるへ。
↓そして「制限(こちらだけの選択をする)」こそ、自我意識。
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さとうみつろう
日本の作家・ミュージシャン。中1の長男コクトウ君と、小3の長女ザラメちゃん、1才になった次女ミリンちゃんの3児のパパ。石垣島で生まれ中学は大分県、大学は北海道。社会を変えるためには「1人1人の意識の変革」が必要だと痛感し、大手エネルギー企業から独立。本の執筆や楽曲の発表を本格化し、初の著書がシリーズ累計30万部のメガヒットを記録。10代の若者を中心に多くの支持を集める。ところ…
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