疑問の毎日 -17ページ目

疑問の毎日

生きるって疑問だらけ・・・


勉強の本には、
勉強する意味が、
書いてあります。


「夢を叶えるための心を養うもの」の
ようなことが書いてある。


わからなくもない。


そんなような気もするけど、
違うような気もする。


なぜ、しっくりこないのか?
直ぐに、この意味を忘れてしまうのか?
考えてみた。


だいたいのみんなが知っている勉強は、
「他人から言われたこと」だから
だと思う。


他人から言われたことを
やっても、夢は叶えられないと思う。


それは他人の夢だ。


自分の夢じゃない。


大前提に、
自分がやりたいことで、
なければならないと思う。

その上で、
自分のやりたいことの先駆者に
勉強の仕方を教えてもらわないと
自分の夢は叶わないと思う。



だいたいのみんなが知っている勉強は、
他人に押し付けられたものだから、

「会社で上司に言われたことを
我慢して言われたまんまやる習慣」を
身に付けるためのもののような気がする。

たぶん、
他人に言われたことを我慢してやれば、
それなりに食っていくことはできると
思う。

だけど、
自分の夢は、ちゃんと叶えられないと
思う。



この勉強は、最低限の、
生きる方法だ。


他人から言われたことを守れば
生きれる。


それだけのことの勉強だ。




夢は違う。
目標を立てないといけない。
目標を立てないと、
どこにもいけない。


目標を立てた上での勉強は、
全然違う。




勉強の本に
次のように書いて欲しい。



他人から押し付けられた
勉強をする意味は、
最低限生きるための我慢を
身に付けるためです。

夢を叶えるものではありません。

夢を叶えたいなら、
自分で見つけて、
自分で目標を立て、
自分で調べ、
自分で行動し、
自分で先駆者の先生を見つけて、
自分で教えてもらいに行き、
自分で叶えてください。




若者の男たちが、
ワーワー、ゲラゲラ言いながら、
商店街で歩いているのを見ると、

昔は、嫌な気持ちになったが
今は、楽しそうだなぁって思う。



何をしでかすかわからないけども、
おとなしい人よりは分かりやすい。
と、思うようになったからかも、
しれない。



ナイフを持っているかもしれなけど、
近づかなければ良い。

隣にいるおとなしい人が、
持っていた場合よりは、
対処の方法が、
いくらでもある。


なんというか、
ボクも、ああやって、
ワーワーゲラゲラ騒ぎたい。


ああやって楽しく騒げるのも、
友人が、たくさんいるからだ。

そして、子どものように、
ハシャゲル心を
持っているからだ。


ボクは、ずっとずっと、
押さえ込んでる。
押さえ込んでるものが、
何かわからない。


それが集中して
何かに取り組むことだと
いうことは、わかる。


優勝したり、成功したり、
してる人を見ると、
うらやましく思うから、
たぶん、そういうものだと思う。


たぶん、
ボクの場合は、
人や自分を傷つけても、
得られるものではないと思う。


映画や本で、主人公が、
相手や自分を傷つけるシーンを見ると、

主人公に入り込んでしまい、
主人公と同じように、
「なんだ、こんな事か」って、
自分に失望する。



そんなことよりも、
優勝や成功した人が持っている心が
欲しい。

あのあふれんばかりの
不屈の闘志が、欲しい。

そして何よりも楽しそうだ。





やりたいことと

なりたい自分は

違うと思う。




やっぱり
天才になりたいし、
お金持ちになりたい。


だけど、
やりたいことは違う。


貧乏でいいし、
頭悪くてもいいけど、
大好きなことをして
悔いのないように
生きたい。




だけど、
みすぼらしくは
なりたくない。





みすぼらしい人とは
どういう人をさすのかな。





ボロボロの人かなぁ。




いまいちわからない。




見た目の問題だろか?








プライドを捨てろと
よく本に書いてあるけれど

プライドって
そもそも、どういう意味なんだろうと
思って、Wikipediaで
検索したら
「自尊心」とあった。

自尊心を更に検索したら
「自己を肯定する態度」と出た。

???

ということは、

「自己を肯定する態度を捨てろ」
という意味なのだろうか?

でも、プライドを捨てろと
書いてある本には
必ずといって良いほど、
「自分を大好きになれ」と書いてある。

つまり、自分を大肯定しろって
ことでしょ?


自分を好きになった後、
自分を好きになる行為を
やめろということ?

それとも
自分を嫌いになった後、
自分を好きになる行為?



謎に思ったら、
謎だらけになってしまった。



プライドってさ。
自分を肯定する言葉ではない気がする。

だけど、言葉が
見つからない。


無理やり、言葉にするならば、


「自分を貴族だと思う態度」かな。


「自分が貴族である優越感」て感じかな。


「自分が一般の人よりも、優れていると思う事」かも、しれない。


とりあえず、
他の人と比べて自分が優れていると
思うことだと思う。


そうなると
プライドを捨てろとは、
「他人と自分を比べてはいけない」という
よくでてくる言葉と同じ意味になる。



じゃあ、
自分を好きになれとは、
どういう意味なんだろう?

「プライドを作れ」ではないとしたら?

???


???




思考中…。



プライドって
過去形かな…。



もしかしたら、

古いプライドを捨てて
新たなプライドを作れって事かな。


古い自尊心を捨てて
新たな自尊心を作れって事かな。


そうだ。
きっと、そうだ。


きっと、自信は、
常に作り直していかないと
いけないんだ。

きっと、プライドは、
常に作り直していかないと
いけないんだ。



つまり、
自分を好きで居続けるためには
常に自分を作り直す必要が
あるのだ。






絵とか、
写真とか、


引き込まれるものと

そうでないものが

あるような気がする。



引き込まれるものは
人が描かれていると
引き込まれやすく感じる。


しかも、何か動作をしているとこだと、
「なにをしているんだろう」と思い、
細かく見始める。


動物でも、
見たことないような動作だと、
引き込まれていく。


見たことあることと
見たことないことが
組合わさっているものがあると
さらにいい。




新しいやりたいことに

やる気が出ないのは、



前のやりたいことが、

できてないから、

新たなことも、

どうせ、できない気がして

やる気がでないのかな。。




じぁあ、
前にやりたかったこと
終わらせて

自信がでれば、

やる気がでたりするかな。。





こちらが
言葉を出したとき、



相手が
どんな反応するか、
少しコワイ。



だけど、
声をかけて、

相手も、
同じ気持ちならば
少し嬉しく思う。




迷惑か、どうかなんて、
結局、わからない。


だけど、
ずっと相手が
気を使ったままなのかも、
しれない。


だとしても、
さっすることも
できない。




なにもわからない。




何を考えてるのか
わからない。




ずっと、
しゃべっていたい人が

ずっと、
そばにいる人は、

超うらやましい。






ボクは、
心を開いて話す相手が
いないから、

このブログに
語りかける
さびしいやつだ。





誰も賭けないさ。

コートのボタンだって、
賭けないさ。








誰も信じないさ。








誰も、描けないさ。

他人の人生なんて、
誰も描けないさ。




自分自身でしか、

自分を描けないのさ。






人生とは、
積み上げていくものだと
思います。


積み上げていく人生のなかで
つらい感情をだす記憶も
どんどん増えていきます。


どんなに他の人にとっては
バカバカしいことでも、


それら記憶が
ヨミガエルタビニ、
なにもできなくなり、


全てが、オモシロクナクナル。


生活の中の、
なんのへんてつもない、
あたりまえのことが、

目に入るたびに、
ボクは、しにたいとくちにし、

なにもする気がなくなるのだ。









「劣等感」だ。








バカになんかされていない。

されていないのに、

バカにされていると思う。





バカバカしいことだ。



気にしなければいい。




誰も気にしちゃいない。



だけど、結局
そういうふうにしたら、
ほったらかしに、
してしまっているのと
同じなんじゃないかって
思う。





現に、
変わらないし
変われない。




やるべきことは
わかっているんだ。


それをすれば、
自信がヨミガエルコトも
想像が、創造がつくんだ。


それはきっと、
人に、人に言ったら
あきれはてられることだと
言うことも
わかっている。



わかってる。






誰も信じられないことも
わかってる。

なぜって、
他の人は、
ボクではないからだ。


他人に答えを求めようとしたって、

結局、
ボクじゃないから
わかんないんだよ。




ただ、わかってんのは、





自分を信じて
成し遂げること。



人がどんなにバカだと
言おうとも、

自分が出した答えを

自分が導き出した答えを





恥じずにやることだ。





自分が
経済的にも地位的にも高いと
思ってる人が
自分よりも、
経済的にも地位的にも低いと
思う人に
対して、

差別するのは、
問題になりやすい。




しかし、
経済的地位的にも低いと思ってる人が
自分よりも
経済的地位的にも高いと思う人に対して
差別するのは
問題にならないように見える。




昔、国内だが、
本土とは離れた島に
観光で行ったとき、

その島の人達は、
ボクのことを「内地の人」と
呼んだんだ。

それに、
関東以外の地域に出掛けたとき
その地域の人達は、
ボクのことを「都会の人」と
呼んだんだ。


ボクは、関東だが、
緑と畑ばっかの地域で育った。

「都会の人」と呼ばれるほど、
都会人ではないはずなのに。


ボクには、
そういう差別的意識はなかった。

同じ日本人なのになんで
そういう呼び方をするのか
不思議に思った。


まるで差別されてるみたいだ。


しかし、問題にはならない。
どちらかと言えば、
相手を誉めている差別だからだ。


相手をけなす差別は、
相手を侮辱する差別だから、
いけないんだ。


だとしたらなんで
「差別」と言う言葉は、
「相手を侮辱する差別」と言う
意味を含んでいるのか不思議だ。

差別と言う言葉では、
自分と相手を分ける言葉でしか
ないように聞こえてしまう。


だから、必要以上に意味が
増えてしまっているように
感じるんだ。


ただ、わかりやすく、
分けられただけで、
差別だ!って思ってしまうように
なってしまうように思えるんだ。


「差別」という曖昧な言葉が
いるせいで、火種だらけに
なってしまうような気がするんだ。


「相手を侮辱する言葉」か、
「相手を敬う言葉」という
言い方をしてほしい。

みんな。

みんなが、しないと
意味ががない。

無理だけどね。



まあ、無理だとしたら、
ボクだけは、
区別するし、
意識する。




自分でも
何をいってんだか
わからなくなりそうなくらい
微妙なことだから、

きっとまた、忘れる。



とりあえず、
相手を侮辱しそうな言葉は
言わないことだ。