教祖百四十年祭に参拝してーかぐら勤めを初見  | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 

 天理教では、年祭といって、教祖没後の10周年ごとに祈念する特別なイベントがあり、信仰活動を活性化させるための行事が10年ごとにある。この年祭活動は毎回3年千日という3年間の特定期間をもって3年前から企画されるのが常である。

 元来、本席様が在世中にこの年祭活動、3年千日の教理が確立された。それが本席没後も形式的に残されたといえる。年祭活動にあたり、毎回、真柱から諭達という地場からの声掛けが発して、この日を迎えたのであった。

 

 教祖百年祭の頃は、私の学生時代で、「百とは白紙に戻して一より」とのスローガンが前の中山善衞・真柱のもとであった。あの頃の学生は、今は皆教団の幹部になられていて、私は名もない末端の信徒である。

 

 

 一信徒として、今回初めて春の大祭に参拝。6時の朝勤めのあと、そのまま居座って、10時半からのかぐら勤めをまじかに拝することができた。北礼拝場の最前列、甘露台の中央線からはすこし東側で、西側の3柱の道具神の独特の手ぶりを初めて拝観できた。一生の思い出となる貴重な体験をここに記す。北側に立つ大亮様の月様(くにとこたちのみこと)は白いたてがみが見えるだけで、その手ぶりは分からない。先の三柱の動きがよく見えるだけであった。すべて男神の三柱は、第一節の「みこと」の部分でそれぞれが異なる動作をしていた。坤の立つ「かしこねの命」は両手を手前から右側一杯へ止める。西の「をうとのべの命」は両手を手前から、腹前にひっこめる。乾に立つ「月よみの命」は、右腕だけを右斜め上に鋭く振り上げる。正確ではないかもしれないが、上記の独特な動作があった。

 ペア神である、月日両人の「くにとこたちの命」と「をもたりの命」は手のひらを下側におろす、他方は手のひらを上に上げるという交互作用の手ぶりがあるらしい。また夫婦の雛形である「いざなぎの命」と「いざなみの命」の両神も同様な交互作用を体現してるらしい。東側に立つ二柱の「いざなぎの命」と「いざなみの命」は頭だけしか見ることが出来なかった。なお西側の女性神の三柱の「くにさづちの命」「くもよみの命」「たいしょく天の命」は全く見ることが出来なかった。

 立ってみようとすれば、境内係から注意されるため座った位置からかろうじて見えるだけである。結界内の教会長たちはもっとよく見られる特権がある。一般信徒と聖職者である教会長たちの間の区別はこのようにして存在する。

 それはそれとして、独特の所作があることをこの目で見られた経験は得難い。「かぐらづとめ」は人間創造の摂理、人間救済の原理をしたシンボライズした天理教の最高儀礼である。宗教学的な月並みな表現でいえば、儀礼を通じて世界が更新するのである。

 今回利用されたかぐら面は、70年祭の時とはある程度異なる意匠でデザインされているらしい。

 

 月日二神が創造の最初にいた神であり、この味気ない世界から人間世界創造が思いつかれた。そこで道具八柱の神々が見いだされ、協力体制のもと人間世界が創造される。天理教独自の創成神話に描かれた神々のストーリーである。この道具神たちは8つの個別の機能・特性をもっていて、それがこのかぐらづとめの手ぶりに表現されている。

 

 人間は人間として存在するのではなく、神によって創造された最高傑作としの人間像がここにある。人間一人ひとりには神の思惑が最高に詰まっている。神々のつとめで人間世界が創造された。このことを対して、人間側の勤めがある、それがつとめ一条である。形のつとめではない、日々の心のつとめである。何事も神様のあたえと信じて仕事に励み、世のため人のため生きていく。

 

 うかうかなく、最高のたんのうを治めて、心磨いて新たな三年千日歩んでいきたい。