茨木基敬さんの初期のお詞の解説の続きです。改めて冒頭から解説していきます。
大正二年八月十七日 神様の楽しまるゝ人
さあ 第一 神の楽しみはな
身上の 壮健 心の正しき人
いんねんのよき人
ものをぼへのよき人
じひの ふかき人
ふうさいの よき人
みよがの よき人
親 孝心の 人
兄弟 むつまじき人・・・・
[釈義]
「さあ 第一 神の楽しみはな 身上の 壮健」
・神様が人間を作って、人間は当たり前のように生きていて、幸福だったり、不幸だったり。幸福や不幸とは主観的なものです。客観的な状況は変えられないですが、受け取る人間の心は自由です。大金があっても、健康でなければどうでしょうか。自由の心を存分に使って、悲観すべき状況もポジティブに受けれることが人間にはできます。その心を受け取って、また先に守護を与えて下さる神様です。
・肉体の健康が第一な事は人類に普遍的な願望です。しかし生まれながらにして、不自由な身体を借りたり、短命だったり、病気がちだったりと、またコロナにかかって、元の体ではなくってしまった人も大勢います。そういった弱者に対して、神様が憐れんでいることは確かな真実だと思います。なぜ、俺はこんな境遇なのか、この世に神などいないと大抵の人は思っています。需要が蒸発して、バス会社もつぶれかかっています。神様がいるなら、助けてくれ、政府の給付金もあてにならない。もう自殺しかない・・・・。コロナ感染がいまだ下げ止まりのなか、不幸な事態が蔓延しています。
・肉体が健康でも、社会生活が維持できないという深刻な事態です。 神に祈っても何も変わらない、何とかしてくれ。こうした叫びが、みちみちています。
・ただ生きていれば、人間何とかなるものです。絶望しても四面楚歌でも、空は青く救いの手がどこかから来ます。人の声に触れて、自分だけで苦しまないことです。 逃亡していたベトナム人の実習生が困窮して、ベトナム寺院で救われ、帰国に成功。これも絶望するなか、救いを求めた行動があったからこそでした[NHKクローズアップ現代の報道から]。
・会社が倒産して、高校生の子が受験もできない親子が将来に絶望して、無理心中[NHKクローズアップ現代の報道から]。進学できなくても、世の中終わりではない。若い力を欲しがっている働き口はたくさんあります。生きれていればこそ、人間は何とかなる。
・健康な体をいただいた人間は、それぞれ、何とかして生きていくことが、人間にとっての運命です。そこから逃げてはいけない。
・若者の自殺者が増えている。死にたくなったら、誰かに打ち明けて、話してください。 不自由な身体を借りながら、必死で生きている、家族で支えている。これが人間のあるべき生き方ではないでしょうか。
大正期は特に大戦後の不況で会社の倒産など今の比ではないほどです。いつも新聞を見て、涙をながされていた茨木基敬さんでした。難儀な人たちへの深い同情心、それは教祖の心にも通じます。