天理教の分派に関する研究では、哲学者から新宗教研究に入られて、日本宗教学会理事である弓山達也先生の博士論文から出版化された『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』(地域社会研究所,2005年)が参考になるでしょう。分派として最大勢力となった教団として「ほんみち」が有名です。その他、神一条教、ほんぶしん・・・その他たくさんあるようです。 詳しくは、以下のサイトにも記述があります。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/omithisonogoden/bunpashico.htm
こうした分派の特色は、教祖(おやさま)の教えを色濃く踏襲しながら、それぞれが独自性を加味しつつ、それぞれが独自の宗教教団として独立して分かれたことです。
そして分派した理由として、元々の天理教の教理を継承しながらも、天理教教会本部がある地場の理を否定していることが一番大きいと思います。
屋敷の理とか地場の理というある固有な土地が人間世界の創造の原点があり、その地場から天啓者として教祖が出現したことが教祖の教えから説かれております。陰陽の二原理が創造原理だとしても、その創造原理は地場の理から生み出されたものであることが、教祖と本席様によって説かれてきたのです。それ故に、お地場帰りという帰参行事もあるわけです。
「ひのもと庄屋敷のつとめの場所は
世の元や」(みかぐらうた 三下り目一つ)
「ここはこの世の元の地場 珍しところがあらわれた」 (みかぐら歌 五下り目九つ)
天理教の分派した方々は、一様にこの「地場の理」を否定しているのです。
教祖時代の助造事件、本席時代の「水屋敷事件」などはこれに相当しているものです。そして大正期にも天啓再来の待望の中で、井出くにの天啓事件、大平良平の『新宗教』雑誌の頒布などの不穏な扇動がある中、茨木事件というものがありました。それは本部の中で「お詞の御用」が始まり、それを当時のご母堂様や松村吉太郎が最終的には拒絶したことで異端化されたものでした。北大教会の信徒詰所で啓示が始まり、一つの軍艦として北部内では大変なお助けがありました。
茨木事件の真相、その御用された「お詞」とは何か、その衣鉢を継ぐ、裏の道、天啓継承の道とは何か、それがこのブログの唯一の特殊性となるでしょう。 地場から追放された、元本部員の茨木基敬さんは、亡くなるまで「地場恋しい」といって出直されました。そこには地場を否定する本心はどこにもなく、神様の御用に、そして教えに殉じた魂の強さを感じます。天啓とは存命の教祖の心を表明したものとすれば、本部は目に見えない教祖を追放してしまったのです。ここに片便りの天啓不在の真柱ワントップ体制が生まれるのです。真柱に権威が一元化しました。とは言え、存命の教祖の体現として、本席様のおさしづがありました。じつはそれ自体が十分に受け取れず、軽くされていたこと自体にもともとの道の失敗の原因が始まっていました。