機械という概念についての考察(1) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 現在の天理教の教団において、「機械」という概念は確立していない。むしろ異端的な概念として忌避されているかもしれないが、続く天啓継承の道、教祖存命の理がご本席様以降も続ているとする伝統の立場から、機械とは何かということについて、ここで整理したく存じます。

 機械(machine)とは近代的な産業革命以降に誕生した、例えばトタヨ式G型のように驚くべき性能をほこる織機などが想定される。しかし、神様の使う「機械」という概念は、神様が使う人間の最高形態を指示している。神が使う道具という言い方はキリスト教にもある。

 

 すでに天理教の教えに、信者を用木(ようぼく)と呼称している。機械は用木より、さらに進化した道具である。神様がその人間を使って、神の思惑を伝えることができる人間が機械である。宗教学の専門用語だと、啓示者、天啓者が機械に該当するだろうが、キリスト教神学の概念との差別化を計らねはならない。

 

  この道において、最初に神の機械となられたのは、教祖の中山みきというご婦人である。宗教人類学的には女性シャーマン、巫女などと類別されるかもしれないが、その伝える内容そのものが他と峻別されるのである。

  親なる神の思惑、理を伝えることができるのが機械なのであり、いたこやユタ、江原さんなど死者のメッセージを伝えるシャーマンとは異なる。自称天啓者はあまたいて、あまたの宗教が天理教から分派しているが、そこで何が説かれているのかが問われるのである。

 そこで理とは何かが、もちろん問われるが、これは教祖の説かれたお話の全ての中に説かれた一貫した体系性をもったロジック、理論、教えである。その教えには「かしものかりものの理」、「心通りの守護する神様という理の道」、そして「人間の魂が自由である」という根幹がある。人間の肉体の意味、心の使い方のあり方、そして有形世界を支配する神様の実在、そして、地場の理が、創造の原点として特定され、この一定の場所が得意な地点だけでなく、親神の思惑の源泉となる。単純化すれば、これらが理の体系の要素のすべてである。

 天保9年の時点で、中山みきを通じて神が話をはじめて、神が現れた。それを受け取る人間側の代表が、夫の善兵衛さんであった。神と人々との問答が続き、善兵衛さんは最終的に受諾し、その際、中山みきという人間に「月日の社(やしろ)」という天職名が定まったのである。豪農であり庄屋のご婦人から宗教的職能者への人生がはじまる。すなわち教祖50年の雛型の道がそこから始まることは、天理教の信仰者ならだれでも知っているのである。

 教祖が明治二十年正月二十六日に現身(うつしみ)を隠されて、天理教は危機的な状況に陥った。明治政府による弾圧は続いているし、さらにその弾圧は激しくなる。この時点で、大工の飯降伊蔵がすでにお屋敷に入り込んでいて、「言上の伺い」という天啓的な仕事を司っていた。そして間もなく伊蔵の身体にただならぬことが起き、あばら骨がボキボキ折れるような激しい身上になる。「真柱を呼んで来い」と。これは人間の伊蔵が下した命令ではなく、神の機械となった伊蔵から発せられた命令なのであった。こうして人間側の代表として屋敷に入り込んでいて、梶本家から養子に来ていた若い真柱の真之亮と伊蔵との間に神人問答があり、伊蔵は天職が「本席」として定まったのであった。そして本席様は二代目の天啓者であり、二代目の機械であり、存命の教祖の理を体現されたのであった。

 

 中山家以外から、機械、正式の天啓者となられた。本席様の御用された音声としての神の言葉は、筆写され編集されて『おさしず』として公刊されている。真柱1人のワントップではなく、真柱と本席のツートップ制がここに明確に定まった。

 教祖も本席も神の機械である。神が貸した人間の肉体を神がまた借り受けて、自由用に使うのが神の機械であり、神の思惑を伝えることができるのが神の機械である。

 

  それは心のきれいな澄み切った精神の持ち主にしかできない天職であり、また天直接の仕事を請け負うという大変な重責を背負うということでもあり、その決心ができなければ、神様も使うことはないのである。機械の生きざまは、雛型を示すものである。教祖の雛型を原型として、それを最も忠実に守った本席様が機械となり、機械として人間の生きるべき指針を雛型として残された。 

 

  機械を通じて書きものとして残されているのが教祖直筆の『おふでさき』、教祖からの口伝であり、原本が紛失した『みかぐら歌』、そして本席様の肉声を筆写された『おさしず』はそれぞれ天理教の原典として公刊されている。

   では書かれたものだけが神の思惑かといえば否である。日々の機械を通じた言動、発言すべてが神様の言葉だと思わねばならない。教祖が赤衣を着たり、別火別鍋にしたとか、本席様も赤衣を着たりしたが、これは同じ人間として理を軽くすることを避けるための便法である。教祖も本席さまも外見から見たら普通の人間であり、そこに神が入り込んでいるとは、周囲には容易に理解しえない人間の浅はかさが出てしまう。

 

 人はどうして神を、理を軽く扱ってしまうのである。特に親族はそのように扱いがちである。機械を軽く扱うことが、道を遅れの最大要因なのであることを肝に銘じないといけない。秀司さんは教祖を老母と形容されていたし、本席様は真柱を常に立てられ、御用の無い時とは、普通のご老人扱いをされていたようだ。

    肉声を伴わず、筆写されないことでも、神様からのメッセージが機械の心に映って来る。それが機械を通じて筆写されることもあれば、口頭で伝えられることもある。 

 神様からの教えはたくさんあると思わねばならない。

 

 前項でも書いたが、教祖の四女のこかん様も神様のお話を取りつぐことができた機械であったと思われる。教祖からの期待も大きかった女性である、若い神様とも呼ばれていた。「別間隔てて」と、『おふでさき』にも記されている。こかん様は幼い頃から教祖の元で育てられたので、機械になることができた。機械は機械とのご縁の中から生まれる。機械の近くにいる人たちは、次の機械の候補であり、それだけに厳しく仕込まれるのである。こかん様には特に天職名があったかは不明であるが、神様からの期待は大きく、教祖の次の天啓者となる可能性もあっただろう。 

    教祖の雛型を構成する重要人物として、こかん様の早死には失敗の雛型として大きな教訓を残された。

    機械は一人単独で成立するのではなく、その受け手が周りにいて、仕込まれるという相関関係の中で成立し、展開する。これは天の組織と呼ばれるシステムを意味し、理の所在を意味する。 

 

  地場の理と機械は切っても切れないものであり、そうであるなら、地場を否定する助蔵、飯田岩次郎、天理本道、その分派などは、機械ではない。

 

 神様の思惑を伝えることができる天啓者が機械である。機械という用語は『おさしづ』で少しだけ記載がある。それは次回に続けたい。