学問の世界では事実の積み重ねやデータを集めて、そのサンプルから何か法則性はないかと探求する手法が用いられる。これは下から上への流れであり、経験主義による知の構築のアプローチがとられる。経験主義や実証主義の研究からは、たいした理論は生まれない。そもそも対象を狭く限定したなかでの事象を切り取って、そこにおける因果律を探っているだけであるからだ。それでもノーベル賞のような偉大な研究成果もそこから生まれるゆえに、長年の地道な科学的探求の尊さがあるだろう。
こうした経験主義の学問的思考に対して、信仰心とは全く逆の視点から発想する。それは上からの下を見る見方であり、直観的で大局的な哲学的把握から出発する。
科学は物質世界の現象の因果関係に関する知識を生み出す。しかし何故事物があるのか、存在の意味論にまでは、立ち入ることができない。目に見える世界のことはわかっても、見に見えない世界については不可知論の立場に知恵を限定するのが科学的世界観である。
これに対して信仰の世界観からは、目に見えない世界の存在を想定し、信じるという非科学的な世界観に立つのである。
神の問題、魂の行方など、理を信じる信仰の世界では、無限や永遠の視点で物事を捉える。これらのテーマは科学を超えた神からもたらされる形而上学的な視座、信仰心からもたらされる英知である。それは決して科学を否定する主観主義や思い込みとは違い、人間の通常の常識を超える視点をもたらすという意味で、より大きな理性や整合的な知の体系を作り出しているといえる。科学の知を否定せず、その知を超えるより大きな意味世界を付与するのが、信仰による世界観だと思われる。
有限なる人間世界にあって、無限や永遠哲学の視点から世界を捉え直すことは、信仰的視点の階梯を上げていくことを意味する。
「肉体を借りている」という天の理の黄金律は、口では簡単に言えても、これを真に理解している人のほとんどいないだろう。自分の肉体、自分の自由な心があるなかで、そこに他者なる神という方が、第三者として顕現することにおいて、誰が神を信じるというのだろうか。
いつも笑われ謗られて 珍しい助けをするほどに (みかぐらうた三下り五つ)
目に見えない世界を信じると、世間の嘲笑に直面する。騙されている、洗脳されている、頭がおかしいと。そのような世間の常識を超えて広がり深めることのできる信仰心はどこから発生し、持続し、信仰の共同体、さらには理想の甘露台世界へと繋がるのか。
天保9年から江戸時代、明治、大正、昭和、平成と時代は進み、多くの信仰的な体験知が積み重ねられてきた。明らかに天保9年の段階とは異なる蓄積が歴史的に蓄えられた。成功体験だけでなく、失敗の体験もふんだんにあり、そこから学ぶ教訓は潤沢である。
インターネットであらゆる知恵が伝達する速度はました。これは人間が作ったものだが、有形の世界を支配する神が与えた道具ともいえる。紙に書かれ、人づてに伝播した時代から、ネットで瞬時に世界のどこからもアクセスできる知となったのである。
悪しきを払うて助け急きこむ一列澄まして甘露台 (みかぐらうた第三節)
科学的な知恵は信仰の英知によって補完され、より統合的で体系的な世界像、人類観が描かれる。それが信仰者のもつ永遠の視座、魂の目といえる。