続 フェアレディとシルビアの謎を追え! | 淑女との戯れ ダットサン フェアレディ

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フェアレディSP311の再生記事を中心に、あれこれと気ままにつづっています。

少しは見えないものが見えてきたかも・・・

 

前回でわかる範囲のことは書いてみたのですが、さらに詳細な「ハナシ」を知ることができたので少々書き足してみようかと思います。重複している内容ですのですがご容赦ください。

 

さて、1964年(昭和39年)に遡るところから始まります。前年の第10回東京モーターショーの出店に向けて進めていた「ダットサン1500クーペ」計画は、生産計画のない自動車は出展できないという日産の社内規定による憂き目に遭い、当初の試作車はお蔵入りすることになります。そのクーペは販売中の「ダットサンフェアレディ1500(SP310)」の車台を使いボディを乗せ換えたもので、型式としては「CSP310」ともいえるものです(未確認)。このプロジェクトは生産計画を立ち上げたことによって継続され次に出来上がった試作車は販売用車両として第11回東京モーターショー1964年(昭和39年)9月26日~10月6日に出展することに漕ぎつけます。

 

ただ、この車はベースになった「フェアレディ1500」が来春「フェアレディ1600」としてマイナーチェンジする計画があるため、合わせて同時に生産計画がひかれます。恐らくこの時点で来春の新型車としての運輸省への申請の中で「車台をCSP」としていたらその後の車台の混在はなかったのではないかと推測します。しかし、プロジェクトの流れの中で特に意識されることもなくそのまま車台を「SP」のまま進めてしまった或いは運輸省の規定や期限の関係でやむなくそのままだったのかもしれません。

 

第10回東京モーターショーでも好評を博し、各種メディアでも取り上げられた「ダットサンクーペ」は来春の発売に向けて生産に入ります。

次の表では、フェアレディおよびシルビアの生産台数と輸出数を示しています。

 

 

ここで注目したいのは、1964年の生産台数です。フェアレディは6台、シルビアは27台の合計33台が生産されています。

この台数を覚えておきます。ある好事家の情報によると、シルビアの初期ロットは50~60台位といわれ、52台であった65台であったという情報もあります。そして、シルビアの車台のSP311-00064までは確実に「7」のない車台番号だそうです。ということは、64年生産のSP311の車台は両車を混在してカウントされていることは確実です。少なくともフェアレディに車台番号「00033」以下の番号を振られているものが6台あるということも間違いないでしょう。(小生はその内の1台は確認しています)

その後どのタイミングかは未確認ですが「7」付きの車台で両車は明確に区別されます。となりますと、フェアレディの車台番号は、生産台数とは一致しなくなります。初期の車台の多くはシルビアに供されたと考えてもフェアレディの100番台の車両はかなりの初期製造であると考えられます。つまり我が淑女もここに含まれます。

 

次に輸出数をカギとした考察もしてみます。

上記の表の数字はそのまま、生産台数ー輸出台数=右ハンドル台数(日本国内用)と鵜吞みにはできません。つまり、実際には輸出用は左ハンドルのみが輸出されているというわけではないのです。例えば「SP311」は右ハンドルで一般には日本国内用といわれています。ところがオーストラリアなどの左側通行圏には「SP311」が輸出されています。こちらは若干の仕様違いで「SP311-U」としてパーツカタログ等では分類されています。左ハンドルは「SPL311」です。北米輸出車の殆どはこちらになります。

 

更に別表によってシルビアの販売や輸出も考察してみます。

上記表に比べ販売台数が記載されている点がよいです。

 

 

左より、年、生産台数、販売台数、輸出台数の順です。

 

生産台数については公表通りの554台で問題ありません。

輸出台数についても同様なのですが、右ハンドルしか量産されなかったので、ショーモデルとして北米への出展はしたもののフェアレディのように北米輸出はなかったようです。この59台の内49台はオーストラリア、2台がパプアニューギニア、10台が環太平洋地域、こちらも右側通行のニュージーランドや香港辺りではないかと推測されます。そして、南アフリカに3台とされています。合計54台。残りの5台はどこに行ったのでしょうか?

 

続いて販売数です。驚くべきは1974年の1台の販売です。1968年に製造されてから6年もの長期在庫だったのでしょうか?そしてこの最後の一台は今なお現役なのでしょうか?とても気になるところです。その翌年の1975年には、「ニューシルビア(S10)」の発売が開始されます。石油ショックがなければロータリーエンジンを搭載して颯爽とデビューしたであろうという迷車です。

 

そして、生産台数554台に対し、販売台数と輸出台数の合計した540台との差に14台があります。どこに消えたのでしょうか?

レース用や寄贈したものなどは販売に入らないと考えればよいのでしょうか?日産ではワークス活動には使ってないが個人の活動はあったようですが、それは販売されたものでしょうからこの中には入らないでしょう。試験車両として解体破壊されてしまったものもあるかもしれません。

 

もしかしたらですが、寄贈としては神奈川県警に2台納入されているものがそうかもしれません。あの第三京浜で活躍したパトロールカーです。

だったとしても、後の12台の行方はいずこへ?

 

 

謎は深いです。

 

R型1600ccエンジン搭載車トリオのうち、「ブルーバードSSS(R411)」については、全くかすりもしませんが、この時代の日産には欠かすことのできない立役者ですので、仲良く三台並びの広告を挙げて今回はしまいとします。

 

 

小生は3台とも大好きです。

 

また何か情報があったら書くかもしれません。

 

では!