一日一思想 -28ページ目

一日一思想

考えることは生きること

私がセイフティネットという言葉を初めて聞いたのは7年くらい前だったか。

障害者の福祉問題を長年取り扱って精力的に活動されている

元議員の作家さんの講演会に行った時に初めてその言葉の存在を知った。


逆にいえば、そのくらい普通に暮らしていれば馴染みのない言葉だったのだ。

確かに普通に生活していて、「ホームレス」というものが存在することも見知っていたが

それがどのような人たちなのか、どういう理由やシステムでそうなっているかなども

考える機会もさほど与えられることもなく、過ごしてきた。

生活保護や障害者年金もそうだが、まさに生きていくための最後の砦。

そしてそれが十分機能していないということを当時すでに警鐘を鳴らしていた。


生きるか死ぬかの者が自立した生活を営むために「短期間」

経済的に生活を支援する、それが生活保護であると理解をした。

支給されたお金の範囲内で暮らしていくことを目的とするのではもちろんなく

何らかの理由で就労や生活の維持が困難になってしまった人に対して

その期間、就労訓練をしたり療養生活をしている間の「生きるためのお金」。

もちろん生きる術がきちんと見つけられた人から生活保護から脱却していく、

大勢の人がそうしているように、私もそう認識していた。


しかしどうやら世の中にはそうではない人もいるらしい。

いかにして楽をしてお金を手に入れられるか

どのような目的の制度であれ、自分にお金が入るのであれば

自分の置かれている立場や状態を虚偽申告したり。

当然のモラルをもってすれば考えられない。


「本当に必要な人たちのケース」をその講演で多く聞いた。

生きるための最後の砦、とはかの議員が言ったようにやはり、「生きるか死ぬか」。

とてもじゃないが「もらえるもんはもらっておけ」というものではなく

本当に悲惨なケースばかりだった。


虚偽申請や不正受給、不当な拡大解釈により

できるだけたくさんの額を搾り取るノウハウをうまく伝授するネットワークを作っているのか。


一般的に本当に生活保護が必要な、生きるか死ぬかの人たちとは、

たいてい社会から隔絶されてしまって、そのようなアドバイスやノウハウにも行きつかない。

それどころか、「もっと働けるはず、これなら受給できません」と言われれば

すごすごと帰ってきて、まだまだ努力が足りないのかと失望するのかもしれない。


そして、ここからが本題なのだが、

生活保護が必要なほど困窮した状況の人たちが本当に必要なのは

その場を乗り越えるだけの、生き延びるだけのわずかな現金ではなくて、

適切な福祉と結ばれ、就労の訓練の機会を得ることなど、

基本的人権が尊重されつつ社会生活を送るための支援を受けることである。

とりあえず現金を渡しておいて生き延びて・・・という体制だから

根本的には解決しないし、「現金だけ欲しい」という不正受給という考え方がはびこる。


同じ予算を使うのならば、もっと社会に対して困窮している人々の実態

なぜそのようになってしまったかの過程や社会での受け入れをもっと啓蒙することや

社会復帰のための職業あっせんや

利用することはできないのだろうか。


なんか世論が「正直者がばかを見るのか、あの程度で生活保護ならうちももらう」という

方向に動いているのを見ると、どちらも噛み合っていないなと感じてしまう。

本当に必要なものが供給されるわけではない生活保護と

その現金をもらうためにあらゆる手段を使う不正受給者。

なにはともあれセイフティネットの実態が広く周知され、

ただの現金支給だけではなく、

ただの厳しい資格審査だけではなく

必要な人が必要な形で支援が得られるようなものに生活保護という制度自体が

大きく転換していってくれる機会になることを切に望む。


それは児童手当を出しますよ、

療育手帳を出しますよ

と言って現金としての支援はしても

個々のニーズに合わせた柔軟な教育的支援を現場ですることはできませんと

言われ続けている私たち親の切なる願いとも重なることなんだと思う。




そして個人的には子どもがいるからこそ

社会に恥じない言動をしなくては。

お金を得ること、使うことが幸せなのではなくて

誠実に生きることを子どもに身をもって示すことも

親としての大きな使命だと再確認。






親だから。

発達に課題があるからこそ。

子どもの成長のためにいろいろしてあげたい。


幼児期は療育に通い、しかしそこで劇的に成長するわけでもなく

「こんな取り組みをご家庭でも日常的にされると発達を促しますよ」と言われ

手探りでいろいろ真似してみたり、本を読んでいいと言われることは試してみたり。


学校に入れば、その授業の中で困らないように

予習をしたり復習をしたり。

どこがわかっていないのか、なぜわからないのか

一生懸命子どもに寄り添って分析しながら教えるが、

学校でやっている教え方と違っていたら

子どもが混乱するといけないので、先生がどんなふうに教えているか

どんなふうに教えるのが主流なのか、そんなことも調べたりしながら

慎重に子どもに「勉強」をさせる。


学年があがってくると抽象的な概念が増えて、

そもそも数の操作だけパズル的にやっていれば何とか解けていた算数や

短い簡単な文章や漢字を扱っていた国語ではなく

それを踏まえて自分で考えていく段階に入っていき、

理解そのものも手数が増えたり、目に見えないものについて考えなければいけなかったり

どうやって教えていいかわからないながらも、解き方のコツを教え込んで

なんとかその場さえしのいでくれればと思うようになってくる。

苦手なところがあっても少しでも楽に過ごせるように、親として精いっぱい考える。

そしてそこは大抵国語や算数といった基礎学力であることが多い。


高学年になると家庭科という授業が入り、手先が不器用な子どもたちが苦労する。

音楽のリコーダー、図工の彫刻刀、ただ苦手、というだけでなく

全く何もできない一時限というのを過ごさなければならないなら、

家で練習しましょう!苦手だけれど。

家庭で使う機会もない彫刻刀、書道道具の手入れから、

親の負担はますます増えていく。

「できなくて困っています(←誰が?)」と先生に言われれば

では家庭でも練習してみますと言うしかない。

例えそれが将来使えなくては困るようなものでは全くなかったとしても。


そんなこんなに振り回されても、愛するわが子の成長を少しでも促したい。

ただその一心で、自分がやりたいことをいろいろ犠牲にしてまで

迷いながらも寄り添って、何年も何年も世間を気にしながら生きている。

本当は他にもできていない子はクラスにもたくさんいるけど、

発達に課題がある子のお母さんはずっとずっと寄り添ってきているから

少しでも成長を促せれば、と気付いて頑張っている。


人並みでありたい。

普通でありたい。

当たり前のような、そうでないような。

それでいいのか悩みながらずっとずっと。


そんな時に、こんな理解のない意見がある。

こんな私たちの気も知らないで。


発達障害を予防する伝統的子育てとは

衆議院議員下村博文

http://hakubun.jp/2012/05/%E7%99%BA%E9%81%94%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%82%92%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/


国会議員が平気でこんなことをいうなら、

学校の先生が、世間一般の人たちの認識が

「発達障害の親って、きちんと子育てしてない人たちだよな」

であっても仕方ないのだろうか。


そんな社会とも私たち、戦わなくてはなりませんか?

そうではないんですって主張していかなくてはいけませんか?

もう親として子どもの面倒を見るだけ以上のことをやってへとへとです。


立ち消えた、一部の人たちの偏見だと思っていたのに

意外と根深い親学。

絶対に許さない。







中学校最後の体育祭に出られるか出られないか・・・ということで

母親である私自身の心が非常に揺さぶられたわけだが、

長い目で見れば、どうでもいい小さなことであろう。


寄り添っていることで、

(今回の場合は炎天下の中、過酷な練習に耐え続けていたことだが)

見えにくくなってしまう、大事なことって本当にたくさんあると思う。



学習でも、学校の勉強に(とくに国語数学)ついていけないと

この先どんどん落ちこぼれてしまう、なんとか今ついていかないと…。

わかってもわからなくてもいいからとにかく正しい答えが書けるようになれば!

という対処は長男にもたびたびしてきた。

本当に理解できているわけではないのだから、すぐ忘れてしまうのだが

とにかく目の前のテストやプリントがクリアできれば、という繰り返しで

しのいできた部分もたくさんある。

そしてそれがたまたま身について理解できていることもある。


でもやっぱりそれはテストのためにやっているわけではなくて

はたまたこの先学年があがれば理解できておかなくては困る基礎学力が

確実に定着するようにはできていない。

何のためかと言えば、「とりあえずみんなと一緒にできるように」。

非常に近視眼的な考え方であるが、それが学校生活の最低条件であるのなら

学習をこなしていくことに弊害があるとは思わない。


ただやはりそこでそのこと「だけ」に気を取られて

健全な子どもの生活をおびやかすことになってしまっては、

まったくもって本末転倒である。

それに母親である私(達)は寄り添うがゆえに見失ってしまうことがあるのかもしれない。



12年前に長男が急性脳症で生死をさまよった時、

生きていてくれればそれでいいと思ったこと。

でも少しでもできることが増えてくると、もっともっとできるはずと

欲張りになってしまう自分がいた。自分のことでもないのに。


体育祭を休まなくてはならない・・・くらいですんでよかった。

生死をさまよい何週間も入院して後遺症が残るような病気でなくてよかった。

「こんな風に一生懸命頑張って準備したけど思い通りにならないこと、

これからの人生でもまたあるかもしれないけど、頑張ろう」

そんなことを長男と話し合えるくらいのことでよかった。


学習でも体育祭でも、そのくらいどうでもいいやって思えるように。

親が一緒に近視眼的におろおろしていてどうするというのだ。

いろんな経験が糧になる、大人だからそんなことも教えてあげられるんだ。