私がセイフティネットという言葉を初めて聞いたのは7年くらい前だったか。
障害者の福祉問題を長年取り扱って精力的に活動されている
元議員の作家さんの講演会に行った時に初めてその言葉の存在を知った。
逆にいえば、そのくらい普通に暮らしていれば馴染みのない言葉だったのだ。
確かに普通に生活していて、「ホームレス」というものが存在することも見知っていたが
それがどのような人たちなのか、どういう理由やシステムでそうなっているかなども
考える機会もさほど与えられることもなく、過ごしてきた。
生活保護や障害者年金もそうだが、まさに生きていくための最後の砦。
そしてそれが十分機能していないということを当時すでに警鐘を鳴らしていた。
生きるか死ぬかの者が自立した生活を営むために「短期間」
経済的に生活を支援する、それが生活保護であると理解をした。
支給されたお金の範囲内で暮らしていくことを目的とするのではもちろんなく
何らかの理由で就労や生活の維持が困難になってしまった人に対して
その期間、就労訓練をしたり療養生活をしている間の「生きるためのお金」。
もちろん生きる術がきちんと見つけられた人から生活保護から脱却していく、
大勢の人がそうしているように、私もそう認識していた。
しかしどうやら世の中にはそうではない人もいるらしい。
いかにして楽をしてお金を手に入れられるか
どのような目的の制度であれ、自分にお金が入るのであれば
自分の置かれている立場や状態を虚偽申告したり。
当然のモラルをもってすれば考えられない。
「本当に必要な人たちのケース」をその講演で多く聞いた。
生きるための最後の砦、とはかの議員が言ったようにやはり、「生きるか死ぬか」。
とてもじゃないが「もらえるもんはもらっておけ」というものではなく
本当に悲惨なケースばかりだった。
虚偽申請や不正受給、不当な拡大解釈により
できるだけたくさんの額を搾り取るノウハウをうまく伝授するネットワークを作っているのか。
一般的に本当に生活保護が必要な、生きるか死ぬかの人たちとは、
たいてい社会から隔絶されてしまって、そのようなアドバイスやノウハウにも行きつかない。
それどころか、「もっと働けるはず、これなら受給できません」と言われれば
すごすごと帰ってきて、まだまだ努力が足りないのかと失望するのかもしれない。
そして、ここからが本題なのだが、
生活保護が必要なほど困窮した状況の人たちが本当に必要なのは
その場を乗り越えるだけの、生き延びるだけのわずかな現金ではなくて、
適切な福祉と結ばれ、就労の訓練の機会を得ることなど、
基本的人権が尊重されつつ社会生活を送るための支援を受けることである。
とりあえず現金を渡しておいて生き延びて・・・という体制だから
根本的には解決しないし、「現金だけ欲しい」という不正受給という考え方がはびこる。
同じ予算を使うのならば、もっと社会に対して困窮している人々の実態
なぜそのようになってしまったかの過程や社会での受け入れをもっと啓蒙することや
社会復帰のための職業あっせんや
利用することはできないのだろうか。
なんか世論が「正直者がばかを見るのか、あの程度で生活保護ならうちももらう」という
方向に動いているのを見ると、どちらも噛み合っていないなと感じてしまう。
本当に必要なものが供給されるわけではない生活保護と
その現金をもらうためにあらゆる手段を使う不正受給者。
なにはともあれセイフティネットの実態が広く周知され、
ただの現金支給だけではなく、
ただの厳しい資格審査だけではなく
必要な人が必要な形で支援が得られるようなものに生活保護という制度自体が
大きく転換していってくれる機会になることを切に望む。
それは児童手当を出しますよ、
療育手帳を出しますよ
と言って現金としての支援はしても
個々のニーズに合わせた柔軟な教育的支援を現場ですることはできませんと
言われ続けている私たち親の切なる願いとも重なることなんだと思う。
そして個人的には子どもがいるからこそ
社会に恥じない言動をしなくては。
お金を得ること、使うことが幸せなのではなくて
誠実に生きることを子どもに身をもって示すことも
親としての大きな使命だと再確認。