成長に寄り添うことと世間の壁 | 一日一思想

一日一思想

考えることは生きること

親だから。

発達に課題があるからこそ。

子どもの成長のためにいろいろしてあげたい。


幼児期は療育に通い、しかしそこで劇的に成長するわけでもなく

「こんな取り組みをご家庭でも日常的にされると発達を促しますよ」と言われ

手探りでいろいろ真似してみたり、本を読んでいいと言われることは試してみたり。


学校に入れば、その授業の中で困らないように

予習をしたり復習をしたり。

どこがわかっていないのか、なぜわからないのか

一生懸命子どもに寄り添って分析しながら教えるが、

学校でやっている教え方と違っていたら

子どもが混乱するといけないので、先生がどんなふうに教えているか

どんなふうに教えるのが主流なのか、そんなことも調べたりしながら

慎重に子どもに「勉強」をさせる。


学年があがってくると抽象的な概念が増えて、

そもそも数の操作だけパズル的にやっていれば何とか解けていた算数や

短い簡単な文章や漢字を扱っていた国語ではなく

それを踏まえて自分で考えていく段階に入っていき、

理解そのものも手数が増えたり、目に見えないものについて考えなければいけなかったり

どうやって教えていいかわからないながらも、解き方のコツを教え込んで

なんとかその場さえしのいでくれればと思うようになってくる。

苦手なところがあっても少しでも楽に過ごせるように、親として精いっぱい考える。

そしてそこは大抵国語や算数といった基礎学力であることが多い。


高学年になると家庭科という授業が入り、手先が不器用な子どもたちが苦労する。

音楽のリコーダー、図工の彫刻刀、ただ苦手、というだけでなく

全く何もできない一時限というのを過ごさなければならないなら、

家で練習しましょう!苦手だけれど。

家庭で使う機会もない彫刻刀、書道道具の手入れから、

親の負担はますます増えていく。

「できなくて困っています(←誰が?)」と先生に言われれば

では家庭でも練習してみますと言うしかない。

例えそれが将来使えなくては困るようなものでは全くなかったとしても。


そんなこんなに振り回されても、愛するわが子の成長を少しでも促したい。

ただその一心で、自分がやりたいことをいろいろ犠牲にしてまで

迷いながらも寄り添って、何年も何年も世間を気にしながら生きている。

本当は他にもできていない子はクラスにもたくさんいるけど、

発達に課題がある子のお母さんはずっとずっと寄り添ってきているから

少しでも成長を促せれば、と気付いて頑張っている。


人並みでありたい。

普通でありたい。

当たり前のような、そうでないような。

それでいいのか悩みながらずっとずっと。


そんな時に、こんな理解のない意見がある。

こんな私たちの気も知らないで。


発達障害を予防する伝統的子育てとは

衆議院議員下村博文

http://hakubun.jp/2012/05/%E7%99%BA%E9%81%94%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%82%92%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/


国会議員が平気でこんなことをいうなら、

学校の先生が、世間一般の人たちの認識が

「発達障害の親って、きちんと子育てしてない人たちだよな」

であっても仕方ないのだろうか。


そんな社会とも私たち、戦わなくてはなりませんか?

そうではないんですって主張していかなくてはいけませんか?

もう親として子どもの面倒を見るだけ以上のことをやってへとへとです。


立ち消えた、一部の人たちの偏見だと思っていたのに

意外と根深い親学。

絶対に許さない。