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一日一思想

考えることは生きること

数年前から言われていたことだが、

就学前にわかりにくい軽度発達障害を発見することで

早期療育を初めて、就学期には障害が目立たないようにすることがよいことだと。

療育は早く始めれば早いほどよいと。


そんなこんなでただいま四歳の次男の周りでも

療育機関にかかわる子たちが少しずつ出てきている。

確かに次男もなんだか偏ってるな、と思うところもあるし

小学校に上がるころには何らかの配慮が必要になるのだろうなと思わないこともないが

なんというか、今までの経験からしてみても、

今療育機関の専門家にかかわってみてもらってどうということよりも

私が自然な範囲で数年後を見据えながらも毎日をのびのび過ごしてやりたいと心から思う。

ので怪しいと思いつつも特に何もつなげてはいない。

そろそろ長男の相談時にちらりと言ってみようかな~と言う程度で。


早期療育をすることで大きな効果が上がるであろうことは理解ができる。

就学までの様々な日常の中での困り感を把握したり、

困難なことに訓練をすることで、集団の中に入り一斉指示で学習をすることも

できるようになることもたくさんあると思う。


長男だって、訓練しなければできなかったこともたくさんあるだろうし、

もっと早く訓練しておけば、みんなと一緒にできたのかもしれないと思うことも少なくない。

克服できる障害ばかりではないが、克服できるものもあるのも事実だと思う。


それで、では早期発見をしましょう。

早期療育をしましょう。


で、いいのだろうか。


今ではかなり軽度の発達障害や知的障害が

早い段階でもわかるようになってきているようだ。

「傾向」や「疑い」、いわゆるグレーゾーンでも

一応クロに選り分けておいて、療育していきましょうというスタンスなのか。


そして早期療育がいいです、と言われれば、

十中八九間違いなく、親はその選択をとるだろう。

障害を受容しているかどうかなんて関係なく。


その次にはおそらく、同年代の子どもと他の子どもとの差異を

探すようになるだろう。

周りの子はみんなできているのに、

うちの子にはできないことがたくさんある。

そういうふうにみえてしまうだろう。


こんな早期発見早期療育なんてなければ

一人の人間としての成長を個性として楽しめる

そんな子育てができた親はたくさんいるはずだ。

きちんとした情報を与えたり母親に対する直接の支援をせずに

こんな脅しだけで、人間の生まれてからの数年間という

もっとも貴重で基本的な人間関係を築く機会に水を差していることは

とても問題なんだと思う。


誰もが持っている権利、「子どもを溺愛する」

そして「溺愛される権利」が絶対的に減ってしまうのであれば

それは私たちが作ってしまう二次障害なのかもしれない。


だからこそ、あえて、

いくつになっても自分の子どもには絶対的な愛を与え続けたい。

改めてそう思う、晩夏の一日。


夏休みの宿題、どうするのよ・・・。

幼稚園を選択するときに、

 近くて給食があって、延長保育があるマンモス幼稚園と

 遠くて給食はないので毎日お弁当で、延長保育はないけど

  自然がたっぷりで立派なアスレチックがあって

  統合保育に理解のあるやはりマンモス幼稚園

の二択で迷ったことがあった。


この場合、自分の都合の部分も多かったが、

自分に余裕がないと難しいだろうなと思っていたのだと思う。

結局後者の幼稚園にしたのだが、その時はそれでよかったと心から思った。

お弁当作るのなんてそんなに大したことではないし、

遠くても本人は近くのバス停から幼稚園バスに乗っていくだけだし、

毎日泥だらけになって自由に遊んだり、しっかりした信念のあるカリキュラムだなと

思える幼稚園ではあった。


でも、前者の幼稚園だったらダメだったかというと

やっぱりそんなことないだろうとも思う。

長男の受動タイプなところと、適応力のあるところも作用しているだろうが、

二年間の幼稚園生活が、後々の小学校以降の発達に大きく関与したかと言えば

まあ、気休め程度だろうなとは思う。


幼稚園を選んでいる時に、前者の幼稚園にするのならば

私が園に行っている時間にゆっくりリラックスさせてもらって、楽をして、

帰ってきたら自然たっぷりの公園に連れて行ってあげればいいじゃない。

というスタンスだったのだと思う。


学校にも何を求めるかというと

「同年代の子との社会生活の場をともにする経験の場」を最優先するのか

「基礎学力のある程度の定着や、社会規範に外れないこと」を最優先するのか。

もちろんどちらも大切なことだけれど、そしてどちらも学校の担わなくてはいけないことだけど

現状の特別支援教育では、ある程度目をつぶらなくてはいけないところなのだろうと思う。


最初のうちはその「目をつぶる」ができなかった。

というか理解しがたかった。

なんで小学生に社会生活をさせて教育させるプロであるはずの

小学校教員が、どちらかしかできません、なんて言うんだろう。


でも学校では足りないところをどこかで補完するのであれば

 社会生活→地域の子ども会やボーイスカウト活動など

 基礎学力の定着→くもんや民間療育などの個別指導

ということをうまく組み合わせてやっていくのが現段階のベストなのだろう。


学校でクラスメイトと普通に生活をさせたい。

でもそのままだと集団の中で過ごすことが難しい子もいるだろうし、

学力の進度がどうしても追いつかないまま、差がついてしまうこともあるだろう。

しっかりと本人の状態像にあわせて(家庭側からの視点だけでなく学校側からの視点でも、納得いくような状態像が浮かび上がるような共通認識があることが大前提だが)

集団の中での生活においても、目標が定められていることは必須なのだろう。


そのためにやっぱり、入れっぱなしなのではなくて

客観的に支援級の先生などが定期的に観察したりアセスメントすることは

欠かせないの要素だと感じる。


そしてもう一つ重要なことだけど意外と見落としがちなのが

どの部分まで期待して、どこで妥協するかという自分なりの(親なりの)

着地点を見定めておくことなのかもしれない。

当然なんだけど世の中の小学生全てが、サッカーが好きで休み時間はお友達と

楽しくふざけあったりして、授業中はしっかりノートをとって発言をして

先生の信頼は厚く、グループワークがあると休みの日も返上で率先して

班の子をまとめて図書館で調べ物をして、放課後は暗くなるまで公園で虫とりやドッジボール・・・

なんていう妄想に取りつかれる必要は全くなくて

「うちの子は放課後誰とも遊ぶ約束をしてこない!」とやきもきする必要も

さしてなかったんだなと後になって反省する。

全部あるべき姿の妄想に追いつけないわが子を苦しめていたんじゃないかと。

多かれ少なかれそんな部分ってあるのかもしれない。




巷では24時間テレビというものがやっているらしいが

普段からテレビを見ないのでほとんど毎年見ないですごしている。

新聞のテレビ欄やネットでコンテンツはほんのり伝わってくるが

障害者が頑張っている姿を健常者が応援するといううがった見方がどうしても先行してしまう。

かわいそうな障害者のために私たち健常者が頑張ってマラソン走ります!っていうよりも

なんで障害者が頑張らなくてはいけないのか、

彼らにとっての社会の中にある障害・偏見とはなにかに焦点を定めてくれないと

時代遅れの自己満足で終わるのだろう。

身近に障害者がいない人は、「障害者とはみんなハンデを持ちながらも頑張っている人」という

強いステレオタイプが出来上がると思うし。

その影響力を違うベクトルに向けること、そろそろできるのではないだろうか。






そんなこんなで普通学級で頑張っていて、ではどうすればいいのかと。

でも普通学級の教員だってスーパーマンじゃないんだから

 1クラスに2~3人は居ると言われる要支援児童に対応して

 年度の学習要領を全て終わらせられるように考えて

 しかも全ての生徒・児童がきちんと理解するように工夫をして

 不登校の子や家庭に問題がある子がいればそれにも対応して、

 教室環境を整えて、いじめが出ないように人権教育にも配慮して

・・・なんてみんなやっては無理でしょう。


その上、基本だけやっていればいいのではなく、学力が上の子に対応するにはどうしたらいいか。

子ども特有の優劣合戦や休み時間の過ごし方、

行事もあって学年で足並みをそろえなくてはいけないことも多いだろう。


例えば0~100パーセントに子どもの単純な基礎学力をおいたとして

20~80までの子達がついてこられるような学習展開をするのが教員としたらどうだろう。

というか、実際、それが現実的な着地点だと思う。

ではそれ以外のあぶれてしまったところが、支援級の出番なんじゃないかなと思う。

個別指導や、わかりやすい教材を、今まで蓄えたノウハウと専門性があれば

そこで両方の担任が補完しあえるはずだし。

せっかくでた特別支援という名前を使って

せめて学習不振児に対応する補習や個別指導を

放課後や夏休みにどれだけできるかなんて、考えてくれないかな~。


普通級で40人抱えている先生が

40人全ての問題を解決しようとするなんて

しょせん無理な話。

誰もそんなことも求めていないからこそ、

学校全体で対応してくださいと言っているのだろう。

でもその「学校全体で対応」というキーワードすら曲者で

校内委員会で要注意児童の名前と悪行さえ共通認識できればよしとする

そんなきらいもあるのではないか。


もう学級王国みたいな変なプライドも、

基礎学力を軽んじていて将来を不安にさせるような

仲良しごっこもおしまいにして

そろそろきちんと組織的に動いていかないと

したかったはずの理想の特別支援教育という立派なボートはどんどん沖に流されて

次から次へと支援の狭間の犠牲者が出続けるんじゃないか。


具体的にかかわれること、かかわれる人材、それに気付くような教員研修

時代に合わせてやっていってほしい。

うちは間に合わなかったけど・・・。