笠松町で寄り道。岐阜県重要文化財の笠松渡船場跡石畳を見学。 | 大工の休み時間

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三島建設の2代目大工が書く日記です。
大工成分は少なめです。

こんばんは。
笠松の湊跡を散策しました。
2代目大工の三島です。

こないだ行った笠松からのサイクリング。
笠松みなと公園から138タワーまでを往復しました。



長女には初めての長距離サイクリング。
疲れてしばらく公園でのんびり休憩。

うんうん、よく頑張りました。





でも私はまだ少ーし走り足りない。
まだ時間もあるしもう一走り。

笠松町でふたたびサイクリング開始です。


目的は岐阜県の重要文化財。
笠松渡船場跡の石畳。

目印は湊の灯台だそう。


堤防沿いを走るとそれっぽいモノを発見。
うん、アレだな。

当時の地図がありました。


八百屋、洋品店、料亭、精米所、呉服屋、歯医者、金物屋……。
なんでもアリの商店街。
さすが大きな湊町。

地図を見ているだけで活気が伝わってきます。



そんな湊の象徴。
目印にもなっている灯台がコチラです。
高さは3メートルくらいかな。
コレがあるとグッと湊感がでますよ!



その前にあるのはこんな石碑。
右が伊勢、左が名古屋。
ここは分かれ道だったんですね。

案内板には「京みちの道標」とありました。
岐阜にもあるお鮨街道。
以前岐阜市内で見たことあったなぁ。
あれがココまで来てたのか。


そしてこの道標。
旅人のため庄屋さんが作ったとあります。


なるほどなるほど。
この時代はちょうどお伊勢参りがブームの頃。


旅人が迷いまくっているのを見たんでしょう。

「迷ってて可哀想だなぁ」
と思ったのか
「聞かれるのもいい加減うんざりだ!」
と思ったのか。

どちらにせよ心優しい庄屋さんですよね。




その他もたくさんの石碑と看板。

松尾芭蕉の句や



周辺の渡船場、


笠松湊のことまで。

読み応えたっぷり。
充実の内容。


でも肝心の岐阜県重要文化財はどこ…




あ、あった。


看板たちの一番奥の方。
名前は木曽川笠松渡船場跡「石畳」です。
ほうほうふむふむ。
コレもなかなか面白い。


と、そんな重要文化財な石畳がコチラです〜。

う〜ん、地味〜。


まぁ石畳だもんねぇ。




でもキレイ並べてあるなぁ。
自然石そのままではない。
キチンと形を整えてあります。

でも看板によると最初は丸石の石畳。
しかし明治天皇のために作り直したとのこと。


たしかなぁ。
丸石は歩きにくいですもん。



でもよーく見ると違う石もある。
この辺りの石だけツヤがない。
石のことはよく分かりませんが花崗岩ってヤツなのかな。

切り出したような形の石。
ソレにあまり使われてないような表面。

後から補修した。
そんなイメージです。


うーん。

石のことはよく分からないなぁ。



首を傾げながら川べりまで。
この石も当時のなのかしらん。

そう思えばそこかしこが遺構に見える。



果たして真相はどうなのか。




キレイに整えられている木曽川の河川敷。
この広い草むらが町の跡、か。






大洪水でできた木曽川の本流。
その水運で発達した湊町笠松。

木曽川で随一の栄華を誇りました。


しかし明治の頃には東海道本線が開通。
賑やかだった町はゆっくり穏やかに衰退。

湊の跡は石畳を残すのみ。
元の静かな町に戻っていったのです。


先ほどの笠松湊の案内板。

その最後は
「笠松湊の役割は終わった」
という言葉で締め括られています。


コレを書いたのが誰かは分かりません。

でも自らの町を「終わった」と書く。
そこに強い意志を感じるのです。


出来上がった看板を見てどんな気持ちになったのかなぁ。





国破れて山河あり。

祭りの後のような漠然とした物悲しさ。
その後に残った美しい自然。


綺麗な木曽川の河川敷を眺めいつの世にもある栄枯盛衰を実感した岐阜県重要文化財の笠松渡船場跡石畳だったのでした。