先日、隣の田辺市まで「響け歓喜の歌」を聴きにいってきました。第9を、生のコンサートで聴くのは初めてでした。ベートーベンってなんてすごいんでしょう。聴きながら涙をおさえられませんでした。
人は、なぜ殺し合いをさせられているんでしょう。クマと人間は、なぜ殺し合いをさせられているんでしょう。私達は、解放されなければいけない。欲によって、すべてを破壊していく人達の支配から。
取り戻さなければいけない。すべての自由で輝く命たちを。生きることの意味を!
先日、隣の田辺市まで「響け歓喜の歌」を聴きにいってきました。第9を、生のコンサートで聴くのは初めてでした。ベートーベンってなんてすごいんでしょう。聴きながら涙をおさえられませんでした。
人は、なぜ殺し合いをさせられているんでしょう。クマと人間は、なぜ殺し合いをさせられているんでしょう。私達は、解放されなければいけない。欲によって、すべてを破壊していく人達の支配から。
取り戻さなければいけない。すべての自由で輝く命たちを。生きることの意味を!
今日は、田辺市のこども園での我が人形劇団の公演でした。子どもたちもよく観てくれましたし、先生たちもとても良い先生ばかり。
素敵な1日となりました!
人形劇をとおしてふれあう子どもたちと先生と僕たち。寒さなんてどこかへ行ってしまいました。
僕の体調の悪さもどこかへ行ってくれたようです(笑)悶々として描けなく成っている作品ともなんとかむきあえれればと思います。
さて、今年の人形劇の公演はこれでおしまい。
来年は1月も2月も公演が詰まっています。
たのしみです。
三谷幸喜さんのドラマ「もしもこの世が舞台なら楽屋はどこにあるのだろう」を観ていて、僕が東京の俳優座小劇場(今はもうない)での人形劇の役者としての最後の舞台を思いだした。
近松門左衛門の「出世景清」で佐々木四郎をやっていた。声が大きいだけの大根役者ではあったが、
演じ終えた舞台上で劇団のひとたちからお別れのプレゼントをいただいた。退団後、ポッカリ穴のあいた時間を過ごした。いったん舞台を経験するとあの板の上と声のすいこまれていく観客席のあの空間が忘れられなくなる。この三谷幸喜さんのドラマは、もしかしたらマニアックなものかもしれないが、僕にはとても懐かしい世界だ。
写真はその「出世景清」の稽古風景。人形もまだ未完成。最近、舞台にたって演出家のせいちゃんからダメだしを受けている夢を時々見る。
自著「森の中の海で」は、2003年から2004年にかけて、ある所に連載していた作品。単行本化は2004年の1月。
だから、東日本大震災も原発事故も起こっていないときに描いた。もちろん、風力発電やパネルソーラーの問題も描いたときにはまだ大きな問題にはなっていなかった。この作品に熊は出てこない。なぜなら我が家の周辺には熊はいないから。自分の身に起きたことを中心に描いているから熊は出てこないのだ(笑)今、改めて、この作品を残せたことをよかったと思う。
「去年の雪」を描かれたマンガ家の村岡栄一さんがその単行本の裏表紙に「ありがとうさようなら 漫画と人生」と書かれていた。病気で漫画が思う様に描けなくなっての言葉だが…哀しい。
右目の緑内障と闘いながら描いていた最後の伝記マンガで挫折してから、なんとなく僕も同じような想いを持った。もちろん、僕が描けなく成った漫画はシリアスなもので、他の漫画はまだまだ描ける。
そして、文章を書くのも好きなので、シリアスなテーマの作品は小説で書ければと応募作を書いている。
ついこの間、また友人が亡くなった事を知る。
何人もの友人や知人が次々と亡くなっていく…
筋トレやランニングを続けて居るのは、まだ描きたいから。生き続けたいから。
表現者であり続けなければと思うから。
若い頃、人形劇団クラルテに居た頃、その劇団のある作品のセリフをときどき思いだす。
「教えてくれ、生きることは闘いか」
「生きることは闘いとることだ。俺はそう思って生きて来た」
クラルテで得たものは大きい。
今、秋田県の風力発電の陸上風車は280基。
280基の風車をたてるためにそれに必要な土地の木が殺された(あえて伐採とは言わない)。巨大な風車を山のてっぺんに運び込むための道作りのために更に木々は殺されていった。結果、動物たちは、それでなくても食べ物のない山から追い出されてしまう。さらに風車の低周波が動物たちの心と体を破壊し、山に住めなくなった動物たちは次々に山を降りていく。熊もそうした動物の仲間だ。巨額の補助金目当てで山々に風車が乱立され、動物たちを死に追いやっていく。
テレビではそうしたことを伝えない。風車のプロペラにたたき落とされて死ぬ絶滅危惧種のクマタカのことも他人事だ。そして今、すべてが人間にかえってきている。エコーなどという言葉に騙されながら、一部の人間たちの利益のために、人間たちはおいつめられていっていることをもっとテレビなどは伝えなくてはいけない。
そして、人間はなにをすべきかを語り合わないといけない。熊にやられる人間のニュースをみるたびに280基もの風車に囲まれた秋田の山々を思う。秋田だけではないと、つくづく思う。
緑内障の右目のおかげで伝記マンガと悪戦苦闘していたアトリエの状態と、今の応募小説を書いているアトリエの状態。なんと静かなことか。
大人用の短編小説2作を整理し終え応募し終えた。今は子供向け用の短編小説2作の整理をしている。どれも思いついたときにパソコンの中に書きためていたもの。応募先の条件を考えずに書いたものなので、そこの条件に合わせて整理している。子ども用の長編小説も整理して応募するかもしれないが、これはもうしばらく置いておく。大人用に描いた長編小説のほうを先に整理するか。
駐車場の車止めに蹴躓き、大きく転倒してからもう大分立ちましたが、やっと右足の親指の痛みから解放されつつあります。先週は、それに加え、熱中症と花粉症が重なり、最悪な体調の中で過ごしていました。
なによりつらいのは集中力が持てなかった事。
伝記マンガにおける挫折感からなかなかぬけだせずに、応募小説を書くことで自分と新たに向き合い続けていましたが、先週は描く事に集中することが出来ないことも多くありました。
ときどき、集中力をなくした僕はどこへいくのだろうと思う時があります。そんなときは、僕はどこからきたのだろうと考える事にしています。僕は確かに歩いてきたのです。そして、同じ足で歩くのです。それがマンガであれ小説であれ絵であれ、迷うことはない。
作品は、歩きながら生まれていくー。
「たちどまればただの地面。歩けばそこが道になる」韓国のドラマになにげなく語られたこの言葉。
なんて当たり前で素敵な言葉でしょう。
歩こう。描くことは歩くこと。
もうしばらく応募小説の整理を続けます。
バイトがなければ無収入の日々ですが(笑)
一昨日ここにアップした11点のマンガ原稿データの続きを何点かかいつまんでアップさせていただき、ここへのこの作品のアップをおわりたいと思います。
このあと、主人公たちは日本へ戻り、焼け野原となった祖国日本に学校をつくられていきます。
そして、中国の崇貞学園は陳経綸中学校として中国で受け継がれ、2000年に、その校庭に安三の功績を称えて、記念碑と胸像が建てられました。
中国広しといえど、学校の校庭に日本人を顕彰する記念碑が建てられたのは、これが初めてでした。
一昨日のアップしたマンガ原稿の中の「あなたには生きる責任があります」というセリフを自分で書きながらズシンときました。何度も噛みしめる毎日です。
悪戦苦闘してきたこの作品を応援してきて下さった方々に感謝いたします。
緑内障の右目を抱えながら描いてきた絵を抜粋して部分的にアップ。
大陸に渡る時の、夢と大志に満ちた海と、哀しみに満ちた海。二つの海の表情は、描き分けられているだろうか。
戦火のなかで学校を作り育てていった素晴らしい人達の生き方と平和の尊さは描けているだろうか。
緑内障の症状は、だんだんきつくなってきて、廃人のような状態でペンを握っているときがあった。
ペン先の向かう先が見えない。そこに置いた筈の透明の定規がどこにあるかわからない。
細かな作業を必要とするシリアスなマンガとは、やはりお別れの時が来た。
でも、緑内障になっているのは右目だけ。シリアスなマンガとはお別れだが、そうでないマンガはまだ描ける。イラストも絵本の絵も描ける。
シリアスな作品を描きたければ小説にすればいい。
挫折の横に希望があった。
うん、君のことを聞きたい。
大丈夫だよ、
僕等は、
戦争が必要だとか、原発が必要だとか、差別はなくならないとか、そんな事を言う大人じゃあないから。
選挙にいってきました。
ぼくらは、こどもたちにとって、そんなおとなでありつづけたい。
そんな社会でありつづけたい。
そんなおもいを一票に込めてきました。
電車のなかで数人の男子中学生が大声でうるさく話している。そばでそれを聞かされていたおばさんが、その会話が終わると、彼らに向かってきっぱりと言った。「あんたら、その話にオチはないんかい!」
4コママンガ「ボクはコースケくん」の連載は大人向け4コママンガ雑誌4誌にまたがって15年続いた。4コママンガは、最後のオチで笑って当たり前の世界。そのオチを追いかけながら疲れ、オチをみつけられずに苦しむ…。やがてオチなどどうでもいいと僕は思い始める。主人公の子どもたちが勝手に動き始めたから。自然と4コマ目にオチが生まれていく…。描き手である僕が子供になっている。
でも、担当の編集者さんが言った。「最近のコースケくんにはオチがないんじゃないですか。だから、同じその4コママンガ雑誌に連載しているあるマンガ家さんに、僕の4コママンガのどこがおもしろいのかわからないっていわれるんですよ」
僕は、こどもたちには受けていたことを読者のかたがたから聞いてしっていたので「そんなこと、別にいいんです。童心にかえれない人にはわからないだけです」と我が道をいく。いつまでも描き続けたい作品だった。でも、4コママンガ雑誌がレディスコミックのように変貌していき、そうではない僕の作品は雑誌の編集方針からはじきだされていく。
そして、とうとう、今の4コママンガに合わせた新作を描いてほしいと言われ、ぼくは拒否して4コママンガ雑誌からはなれてしまう。
「ボクはコースケくん」で単行本化されたのは、6巻。ごく一部だ。手元にある15年間にもわたる大量の原稿を観ながら、オチだけを追いかける日々とはなにかと思う。描き手は、そんなところにはいない。オチはうまれてくるものだから。