方広寺 国家安康の銘鐘 & 大仏殿跡(京都市東山区) | 高橋みさ子のブログ

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(方広寺 国家安康の銘鐘=京都市東山区 2018年8月撮影)

 

大阪冬の陣ひいては豊臣家滅亡の遠因とされる方広寺鐘銘事件(慶長19年=1614年)。

 

日本史上稀に見る難癖、イチャモン事件と目される同事件の銘鐘は、実は意外にも現存しています。

 

地図で場所を確認してみましょう。

 

 

歴史的大事件の舞台となった方広寺は、隣接する豊国神社や京都国立博物館と比べると訪れる人も少なく実にひっそりとしています。

 

 

(方広寺銘鐘)

 

家康が呪詛の疑義ありとした「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘文(赤丸の中)。

 

 

(「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘文 )

 

家康が吹っかけた難癖とは

 

「国家安康」→「家」「康」が「安」で分断され、秀頼が家康を呪っている。しかも銘文に家康 

        の諱(いみな=生前の名前)を用いるのは不敬極まりない。

        (本来の意味=国家が安泰でありますように)

 

「君臣豊楽」→ 豊臣が君主で楽しいとは何事だ。

        (本来の意味=君主も家臣も皆豊かで楽しくありますように)

 

ここまでの曲解は、悪意がなければ出来ないことでしょう。

 

大坂冬の陣の一因になったとされるこの銘鐘は、事件のあと鐘が鳴らないように地面に下ろされ野晒しにされていたそうですが、徳川にとって真に忌々しいものであるならばとっくの昔にこの世から消えて無くなっていると思うのですが、如何でしょうか。

 

事件の後、まるで何事もなかったかのように今日まで生き永らえています。

 

呪っているのはむしろ家康の方ではないかとさえ思えます。

 

「何としても豊臣家を滅ぼす」という家康の強い執念が宿る方広寺鐘銘事件。

 

さて、次に方広寺の大仏殿跡について見てみましょう。

 

方広寺にはかつて現在の東大寺を凌ぐ大仏と大仏殿があったそうです。

 

方広寺大仏殿跡の場所はこちら。

 

 

京都国立博物館の一部や豊国神社も昔は方広寺の境内でしたから、現在の方広寺と比べてもとても広かったことが分かります。

 

 

(方広寺大仏殿跡)

 

解説板に目を通してみましょう。

 

(「方広寺大仏殿跡」京都市建設局緑政課 復元図提供:財団法人京都市埋蔵文化財研究所)

 

「方広寺大仏殿跡

 天正13(1585)年、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4(1595)年に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製

金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3(1598)年には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17(1612)年に大仏を事実上完成させました。しかしその後鋳造された梵鐘の銘文、<国家安康 君臣豊楽>が徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために大阪の陣が起こり、豊臣氏が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10(1798)年に落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。

 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されています。大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通(しょうめんどおり)と呼ばれることも方広寺に由来しています。なお、「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である方広会(ほごえ)にちなむといわれています。

  京都市建設局緑政課 復元図提供:財団法人京都市埋蔵文化財研究所」

 

文中の「巨大な石塁(国史跡)」はこちら。

 

 

石塁は大和大路通りに面して南北約260mにわたって現存し、ストリートビューでも確認することができます。

 

 

大きな石が並ぶ立派な石垣ですね。かつての方広寺がいかに壮麗な伽藍であったかが伺い知れます。

 

さて、秀吉の大仏殿跡は平成12(2000)年に京都市埋蔵文化財研究所によって部分的な発掘調査が行われ、現在の東大寺大仏殿よりも大きいことが改めて確認されたとのこと。

 

解説板に目を通してみましょう。

 

(大仏殿跡緑地 京都市建設局緑政課 写真・復元図提供:財団法人京都市埋蔵文化財研究所)

 

「大仏殿跡緑地

 かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。

現在の緑地はその中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。調査の結果大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55mという、現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことがあらためて確認されました。発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。

  京都市建設局緑政課 写真・復元図提供:財団法人京都市埋蔵文化財研究所」

 

 

以上まとめとしまして、秀吉は10年掛かりで京都に大仏と大仏殿(方広寺)を創建したが、完成の翌年に起きた慶長の大地震(1596年)で不運にも木製の大仏は損壊してしまった。しかし大仏殿は倒壊を免れた。秀吉亡き後、子の秀頼は地震に強い金銅の大仏を建立するも、大仏殿の中で鋳造作業を行うほかなかったため(本来は大仏を作ってから大仏殿を建立するが、大仏殿が残っていたので順番が逆になってしまった)大仏鋳造の火が大仏殿に燃え移ってしまい大仏殿も焼失してしまった(1603年)。しかし、秀頼はその後、慶長17(1612)年に大仏と大仏殿を復興させ、その開眼供養という重要なタイミングの直前に家康が梵鐘の銘文に異議を唱えた。それが方広寺鐘銘事件(1614年)である。

 

方広寺鐘銘事件が1614年7月、同年11〜12月 大坂冬の陣、翌年 4〜5月 大坂夏の陣で秀頼が自害。鐘銘事件からわずか10ヶ月のちに豊臣家は滅亡してしまいます。

 

この怒涛の急展開には家康の並々ならぬ執念を感じずにはいられません。

 

秀頼自害ののち、秀頼の唯一の男の子であった国松は7才という幼さで京都市中引き回しのうえ六条河原で斬首されたとのこと(生存説あり)。

 

天下人秀吉の孫 国松の幼き首が罪人よろしくはねられるとは、歴史とはなんと非情なのだろうとしみじみ思います。

 

 

最後に、大仏の名残りはこんな所にも。「京都府東山警察署 大仏前交番」

 

(写真)京都市東山区茶屋町 方広寺 及び 方広寺大仏殿跡 2018年8月14日撮影