
岡山の鼻塚跡記念碑(岡山県備前市香登本1278) 2026年4月撮影
昔むかし戦国時代も終わりの頃、現在の岡山県備前市香登(かがと)に六介なる男が暮らしていました。
秀吉の朝鮮出兵に従軍した六介は、主君の命に従い、戦で落命した現地の人々の鼻を首級代わりに持ち帰りました。

岡山の鼻塚
しかし、いくら主君の命とは言え忍び難く思った六介は、鼻を郷里の香登の地に葬り深く霊を弔ったと言うことです。
六介亡き後も鼻塚は香登の人々によって手厚く祀られ「千人鼻塚」と言い伝えられて現在に至ります。

鼻塚跡碑裏面 解説文
鼻塚跡碑裏面の解説文です。少し長いですが読んでみることにしましょう。
この地に祀られていた塚は、文禄元年(1592)に豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵の際、首級の代わりに持ち帰った鼻を葬ったもので、鼻塚と言われています。
当時、宇喜多秀家の家老 長船紀伊守の旗持ちとして従軍した香登西の六介は、命によって持ち帰った鼻ではあるが、祖国に殉じた人達に深く思いをはせ、塚(祠)を造って冥福を祈ったということです。なお、六介は従軍中現地の人から良膏の仕法を教わって日本に広め、その元祖になっています。香登村では、その後「千人鼻塚」と言い伝えられ、地元で手厚く祀ってきましたが、祠が荒廃したため昭和五十七年四月に有志六百三十余名の協力を得て再建されました。
その後、このことが韓国に伝わり、殉国者を韓国で慰霊したいとの要請があって、平成四年(1992)十一月これを執行し、翌年十一月に全羅北道扶安郡上西面の地に慰霊碑が建設されました。
このたび、両国有志の要望もあって、このことを永く後世に伝え、同時に国際親善を祈念し、記念碑を建立しました。
平成八年四月吉日
鼻塚跡記念碑建設委員会
行き方のご案内です。
地図のはめ込みが上手くできませんので、ストリートビューを表示させて頂きます。

上のストリートビューで表示されているのと同じ場所です。
西国街道から左に分岐する短い坂道(赤い矢印)を上ります。

坂を上り切った一番奥に鼻塚があります。
西国街道からすぐに辿り着けます。

岡山の鼻塚 祠と鼻塚跡碑
最後に、京都の耳塚はよく知られていますが、岡山にも鼻塚があり戦の世の無情を感じずにはいられません。
無情の世に生きながらも、戦で殺めた人々の冥福を忘れ得なかった六介に、後世の人々は深く心を寄せ400年にも渡って手厚く弔って来たのでしょう。
(写真)岡山の鼻塚 岡山県備前市香登本1278 2026年4月26日撮影