高橋みさ子のブログ

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趣味のウォーキングを通して出逢った町や自然を
写真とともに楽しくご紹介しています。宜しくお願いします。

毛卍紋(けまんもん) (出典 : プチソザイ「毛卍文のパターン4」)

 

伝統的な和柄の一つに "毛卍紋(けまんもん)" と呼ばれる文様があります。

 

”巻き毛紋” とも言い、唐獅子の身体の巻き毛を図案化したもので、「獅子舞の布の模様」と言った方が分かりやすいかも知れません。

 

三代目歌川豊国(1786〜1865)  1850年頃の作品 (出典 : Wikipedia「獅子舞」) 

 

毛卍紋は三日月形を放射状に並べた円形の文様で、厄除けの願いが込められており、神域を守護し邪気を払う狛犬にも用いられています。

 

履掛天神宮(岡山県備前市伊部1559)備前焼の狛犬 阿形 2026年5月撮影

 

履掛天(くつかけてん)神宮の備前焼狛犬にモデルになってもらいました。

 

拡大してみます。

 

 

力強く迫力のある狛犬で思わず見惚れてしまいますが、今回注目するのは胴体部分の渦巻文様。

 

毛卍紋は、陶像に限らず石像の狛犬にも彫られています。(無いものもあります。)

 

岡山県備前市 マンホールの蓋  備前焼の狛犬 阿形 2026年4月撮影

 

そして、備前市のマンホールの蓋の狛犬にも毛卍紋が描かれていますが、少しデザインが異なります。

 

宇佐八幡宮(岡山県備前市西片上1) 備前焼の狛犬 吽形 2026年4月撮影

 

宇佐八幡宮の備前焼狛犬の後ろ足にはマンホールと同じ文様が刻まれていますので、毛卍紋にもバリエーションがあるのかも知れません。

 

今回は、日本の伝統的な図柄である毛卍紋について少し触れてみました。

 

全く縁がないようで、意外と身近な所にある文様でしたね。

天津神社 備前焼の狛犬(岡山県備前市伊部629)

 

狛犬の阿形と吽形、口が開いているか閉じているかで見分けが付きますが、実は口以外にも違いがあります。

 

上の写真の阿形と吽形を見比べて見ると、確かに違いますね。

 

 

天津神社 阿形(獅子)

 

阿形の狛犬は「獅子」とも呼ばれ、たてがみは巻き毛、耳は寝耳で表現されます。

 

 

天津神社 吽形(狛犬)

 

一方、吽形は立ち耳、たてがみは直毛またはウェーブヘアで、阿形の「獅子」に対し吽形のみを「狛犬」と呼ぶ場合もあります。

 

 

荒神社 備前焼の狛犬 吽形(岡山県備前市伊部848)

 

さらに、吽形には角のあるものも。

 

以上をまとめますと

阿形 → 「獅子」と呼ぶことがある。寝耳。巻き毛。

吽形 →  こちらだけを「狛犬」と呼ぶことがある。立ち耳。直毛またはウェーブ。角がある場合も。

 

ただし、これらの特徴に該当しない狛犬も数多く存在します。

 

むしろ該当しないケースの方が多いですね。

 

石像も陶像も、口の形の決まり事以外は可成り自由に造形されています。

 

さて本題から少し外れますが、狛犬を観賞する際のおすすめアングルをご紹介させて頂きます。

 

それはズバリ!  後ろ姿がとっても可愛いことです!!

 

 

荒神社 備前焼の狛犬 吽形

 

先ほどの荒神社の吽形、小首を傾げてお利口に座っているように見えませんか?

 

 

頭島神社 備前焼の狛犬 阿形(岡山県備前市日生町日生2830)

 

そして、筆者が一番お気に入りなのが、頭島神社のこちらの狛犬。

 

丸い耳が可愛いですね。ちなみにお顔はけっこう恐いです。

 

最後に、陶像の狛犬は造形の自由度が高く、個性的な備前焼の狛犬が備前市内やその周辺に散在しています。

 

備前焼の里にお越しの際は、細工師さんが心血を注いで造形したこうした狛犬にも目を向けて頂ければ町歩きが一層楽しくなること請け合いです。

 

(写真)天津神社の狛犬 岡山県備前市伊部629 2025年5月14日撮影

    荒神社の狛犬  岡山県備前市伊部848 2025年5月13日撮影

    頭島神社の狛犬 岡山県備前市日生町日生2830 2023年12月24日撮影

乙子城跡の階段(岡山市東区) 2026年2月撮影

 

2月のある日、宇喜多直家 "国取り始まりの地” とされる乙子城(おとごじょう)跡(岡山県岡山市東区乙子289)を訪ねました。

 

乙子城は、後に備前国(現在の岡山県南東部)の戦国大名となる宇喜多直家(1529〜1581または1582)が初めて城持ちとなった城で、標高47mほどの低山に築かれた山城です。

 

築城年など詳細は不明とのことですが、直家が城主を勤めたのは天文13年(1544年)頃から5年間とのこと。

 

当時の城は石垣を持たず土塁で防御壁を築いていたそうで、乙子城も例外ではなく、また本丸の東側に延びる連郭式曲輪は現在はその一部が墓地に転用されています。

 

城の痕跡は曲輪くらいしか残っていません。

 

西側から本丸(山頂)に至る道は、急峻ではありますが手すりが付き階段も良く整備され、ものの10分足らずで山頂に到着します。

 

冬は木々の梢枝から児島湾が見渡せ眺望があります。

 

古地図を見ると、城の西側は児島湾に面しており、西側から登る道は後年になって付けられたようです。

 

前置きが長くなりましたが、それでは乙子城跡に登ってみましょう。

 

 

乙子城跡 西階段入口

 

鳥居をくぐります。

 

 

 

階段を道なりに進みます。

 

 

大国主神

 

大国主神をお祀りした小さな社の脇を通り抜けます。

 

階段は一本道で、案内表示もありますので迷うことはありません。

 

 

乙子城跡階段と吉井川

 

山頂(本丸)の手前で振り返ってみました。

 

吉井川が見え、開放感があって気持ちが良いです。

 

 

 

山頂が見えてきました。

 

 

 

到着です。

 

北に芥子山(けしごやま)や西大寺の街並みが見えます。

 

 

山頂より西〜北を望む(パノラマ合成写真)

 

西側に広がる陸地は江戸時代以降に干拓されたもので、直家が在城していた頃は一面の海でした。

 

当時の吉井川河口は乙子城跡より少し上流に位置しており、今とは景色が随分異なります。

 

 

乙子城跡より南を望む

 

南には児島湾入口が見えます。

 

 

乙子城本丸跡 解説板(「乙子城跡を復興する会」平成8年10月吉日建之)

 

乙子城本丸跡の解説板です。(画面が切れていてすみません。)

 

長文ですが、読んでみることにしましょう。

 

「乙子城

 

 宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、『国とり』はじまりの地といえる。

 乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に広がる児島湾を隔てて児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。

 戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文十三年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽三十人をつけて直家に守らせた。

 邑久郡乙子城古図によると城は、本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。郭は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡がみられる。」

 

 

乙子城跡 解説板より「邑久郡乙子城古図」

 

乙子城の西側は児島湾に突き出ていたことが分かりますね。

 

本丸から東に伸びる曲輪は現在は墓地に転用されていますので、本丸跡へは乙子山の南側や東側から墓地(腰曲輪)を通り抜けて行くこともできます。

 

 

乙子城跡 解説板より「戦国時代の乙子城周辺図」

 

実線が当時の海岸線、波線が現在の海岸線です。

 

児島湾の広大な大地はその大半が江戸時代以降に大規模干拓されたもので、戦国時代と現在とでは地形が大きく異なります。

 

当時の乙子城は吉井川河口にほど近く、また児島湾入口に目を光らせることもでき、海上交通を掌握する好条件が揃った立地であったことが分かります。

 

 

 

本丸跡の解説板支柱に刻まれた「平成八年十月吉日建之 乙子城跡を復興する会」の文字。

 

 

「宇喜多直家 国とりはじまりの地」碑

 

さて、乙子山から少し北に行ったところに「宇喜多直家 国とりはじまりの地」碑があります。

 

 

「宇喜多直家 国とりはじまりの地」碑 解説板(右半分)

 

本丸跡の解説板と一部内容が重複しますが、こちらも読んでみることにしましょう。

 

 

「乙子城

 

 宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地と言える。

 乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、北東に邑久郡の千町平野、北西に上道郡南東部を望み、また、南から西に広がる児島湾を隔てて児島郡の山々を遠望できた。ここは、戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地として備前国東半を支配した浦上宗景の領地の南西端にあたり、臨海性の戦術拠点であった。直家は、乙子城に五年間在城し、この地の治安維持につとめ、砥石城を攻め落とす手柄を挙げて、その恩賞に新庄山城を与えられ、その後、乙子城は持城として弟の忠家に守らせた。

 城郭は、本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。各郭は、ともに土段築城で、高石垣は認められない。本丸には、当時の土塁の痕跡が認められる。」

 

以上、長文失礼致しました。

 

最後までお読み下さり有り難うございました。

 

(写真)乙子城跡 岡山県岡山市東区乙子289

    2026年2月22日撮影

ノボロギクの茎を食べるシロヒトリの幼虫 (岡山県備前市 2026年4月撮影)

 

4月のある日、ウォーキング中にふと足元に目をやると毛虫が雑草をモグモグ食べていました。

 

旺盛な食欲です。

 

この季節、アスファルトを歩いていたり雑草を食べたりしている毛虫をしばしば目にします。

 

その姿形からまさに ”毛嫌い” されがちな毛虫ですが、茎にしがみついて一心不乱にお食事をしている姿はなんとも愛らしいですね。

 

 

調べたところ、アスファルトに根性生えしている雑草は「ノボロギク」、毛虫は「シロヒトリ」の幼虫と分かりました。

 

シロヒトリの幼虫は毒針を持たないそうですが、毛虫はむやみに触らない方が良いかも知れないですね。

 

毛虫の中では一番歩くのが速いのだとか。行動範囲の広い毛虫さんです。

 

 

毛虫の胸脚と腹脚

 

世間では不快害虫として疎まれがちな毛虫ですが、3対の胸脚と4対の腹脚で茎にしがみついてモグモグお食事をしている姿は可愛いですね。

 

(写真)ノボロギクの茎を食べるシロヒトリの幼虫 

    岡山県備前市伊部 2026年4月26日撮影

スミレの花と実(岡山県備前市 2026年4月21日撮影)

 

4月のある日、道端のスミレにふと目をやるとドングリのような実を付けていました。

 

スミレの実ってこんな形だったんですね。

 

スミレの花と実

 

調べたところ、スミレには「開放花」と「閉鎖花」があり、春先に可憐な花を咲かせるのは開放花とのこと。

 

「距(きょ)」と呼ばれる袋の中に蜜を溜めて昆虫を誘き寄せ、他家受粉によって種を作ります。

 

萎れて枯れそうになった花は、受粉に失敗したのでしょうか。

 

子房が膨らんだ開放花

 

閉鎖花は開放花が咲き終わった後に花芽を出し、蕾のまま開花することなく自家受粉によって親から子へ完璧なクローンで世代交代が行われるとのこと。

 

春先に真っ先に可憐な花を咲かせるスミレは、その儚げな姿とは対照的に、他家受粉による「多様性」と自家受粉による「確実性」の両方を見据えたしたたかな策略家だったのですね。

 

(写真) 道端のスミレ 岡山県備前市伊部 2026年4月21日撮影