高橋みさ子のブログ

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趣味のウォーキングを通して出逢った町や自然を
写真とともに楽しくご紹介しています。宜しくお願いします。

スイバ・ヒメジョオン ・クサヨシ 備前焼水盤 2026年5月27日撮影

 

道端の雑草で盛花を生けてみました。

 

「”雑草”という草はない」と言ったのはかの牧野富太郎博士だそうですが、博士のその心の内は理解できなくもありませんが、そうは言っても雑草は所構わずしぶとく生える迷惑者であるのもまた事実。

 

そんな雑草を生け花にできないものかと思い立ち、備前焼水盤に試しに生けてみました。

 

”野の花” と言えば少しはお洒落に聞こえますが、旺盛な繁殖力を持つこれらの草花は、自由闊達でなかなかお行儀よく収まってくれず、そんな野趣溢れる様が魅力でもあります。

 

最後に、ヒメジョオンを1本にしたバージョンです。

 

 

岡山の鼻塚跡記念碑(岡山県備前市香登本1278) 2026年4月撮影

 

昔むかし戦国時代も終わりの頃、現在の岡山県備前市香登(かがと)に六介なる男が暮らしていました。

 

秀吉の朝鮮出兵に従軍した六介は、主君の命に従い、戦で落命した現地の人々の鼻を首級代わりに持ち帰りました。

 

岡山の鼻塚

 

しかし、いくら主君の命とは言え忍び難く思った六介は、鼻を郷里の香登の地に葬り深く霊を弔ったと言うことです。

 

六介亡き後も鼻塚は香登の人々によって手厚く祀られ「千人鼻塚」と言い伝えられて現在に至ります。

 

鼻塚跡碑裏面  解説文

 

鼻塚跡碑裏面の解説文です。少し長いですが読んでみることにしましょう。

 

 この地に祀られていた塚は、文禄元年(1592)に豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵の際、首級の代わりに持ち帰った鼻を葬ったもので、鼻塚と言われています。

 当時、宇喜多秀家の家老 長船紀伊守の旗持ちとして従軍した香登西の六介は、命によって持ち帰った鼻ではあるが、祖国に殉じた人達に深く思いをはせ、塚(祠)を造って冥福を祈ったということです。なお、六介は従軍中現地の人から良膏の仕法を教わって日本に広め、その元祖になっています。香登村では、その後「千人鼻塚」と言い伝えられ、地元で手厚く祀ってきましたが、祠が荒廃したため昭和五十七年四月に有志六百三十余名の協力を得て再建されました。

 その後、このことが韓国に伝わり、殉国者を韓国で慰霊したいとの要請があって、平成四年(1992)十一月これを執行し、翌年十一月に全羅北道扶安郡上西面の地に慰霊碑が建設されました。

 このたび、両国有志の要望もあって、このことを永く後世に伝え、同時に国際親善を祈念し、記念碑を建立しました。

  平成八年四月吉日

           鼻塚跡記念碑建設委員会

 

 

 

行き方のご案内です。

 

地図のはめ込みが上手くできませんので、ストリートビューを表示させて頂きます。

 

 

上のストリートビューで表示されているのと同じ場所です。

 

西国街道から左に分岐する短い坂道(赤い矢印)を上ります。

 

 

坂を上り切った一番奥に鼻塚があります。

 

西国街道からすぐに辿り着けます。

 

岡山の鼻塚 祠と鼻塚跡碑

 

最後に、京都の耳塚はよく知られていますが、岡山にも鼻塚があり戦の世の無情を感じずにはいられません。

 

無情の世に生きながらも、戦で殺めた人々の冥福を忘れ得なかった六介に、後世の人々は深く心を寄せ400年にも渡って手厚く弔って来たのでしょう。

 

(写真)岡山の鼻塚 岡山県備前市香登本1278 2026年4月26日撮影

広島城 中御門跡石垣

 

広島城 中御門跡の石垣は、原爆投下による火災で赤く変色し、ひび割れて所々剥落しています。

 

広島城 中御門跡石垣

 

何とも痛々しげな姿で、心が痛みます。

 

花崗岩は炎に当たると赤くなるんですね。

 

広島城 中御門跡


本丸の入り口にある中御門は、爆心地から北北東に約780mの場所に位置し、建物の大半が全焼・全壊した半径2kmの壊滅エリアにすっぽり収まります。

 

上の写真は右方向(南)が二の丸、赤く変色した石垣は爆心地とは反対方向(北)を向いています。

 

焼失前は石垣の上に門や櫓が建ち並んでいたそうで、本丸の玄関口だけあってとても立派な石組みです。

 

鏡石のような石も見えますね。

 

広島城 中御門跡 解説板

 

「中御門跡

 1945年の原子爆弾の投下により、中御門は焼失しました。

 門とともに櫓台の石も焼け、赤く変色しひび割れています。」

 

また、国宝に指定されていた旧広島城天守閣は、原爆の爆風で跡形もなく倒壊したそうです。

 

広島城 土橋

 

中御門跡から南方向に目をやると、土橋を渡った先の二の丸側には被爆樹木ユーカリ 、土橋の手前 本丸側には被爆樹木マルバヤナギが見えます。

 

丸焼けになりながら、よく息を吹き返してくれたものと思います。

 

 

岡山城 天守台・天守閣

 

さて、ここからは岡山城のお話しです。

 

岡山城天守台の上部も赤く変色しているのがお分かり頂けると思います。

 

赤く変色した岡山城天守台

 

国宝だった旧岡山城天守閣は、昭和20年6月の岡山大空襲で焼失し、石垣も焼けて赤く変色したとのこと。

 

空襲から81年経った今も赤味を留めたままです。

 

赤く変色した岡山城天守台

 

戦後再建された天守閣は、先年修復工事を終え烏城の名に相応しく威風堂々たる漆黒の姿を取り戻しましたが、石垣は火傷の痕のように痛々しげです。

 

岡山城天守台 解説板

 

「岡山大空襲による被災建築物説明板

 岡山城天守台

  岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、

 戦災前は国宝に指定されていました。 

  昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は

 焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。

  その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、

 空襲の激しさを伝えています。

    平成9年3月 岡山市」

 

何が起こっても耐え忍び黙して語らぬ石垣ですが、赤い石垣の謂れを知ると、凄惨なる戦禍に思いを致さずにはいられません。

 

(写真)広島城中御門跡 広島市中区基町21-21     2023年6月3日撮影

    岡山城天守閣  岡山市北区丸の内2丁目3-1 2024年12月28日撮影

風鈴のトンネル 天津神社(岡山県備前市伊部627) 2026年5月撮影

 

久々に天津神社にお参りに行くと、参道に風鈴のトンネルが出来ていました。

 

備前焼は釉薬を掛けず硬く焼き締めて焼成しますので、ガラスのような軽やかで涼しげな音色を奏でます。

 

”聞く” 備前焼をしばしお楽しみ下さい。

 

 

(写真)備前焼の風鈴 天津神社 岡山県備前市伊部627 2026年5月10日撮影

ジャーマンアイリスの一種生け 備前焼水盤 2026年5月撮影

 

備前焼の水盤にジャーマンアイリスを生けてみました。

 

 

お生花のカキツバタや花菖蒲の葉組みにならい、葉先のツメ(爪)の向きを意識して葉を組みました。

 

華道では葉先の曲がり(上の写真の赤い◯)をツメ(爪)と呼び、自然の出生の姿に従い長い葉から順番に葉先が互いに向き合う様に葉を組み合わせます。

 

お生花は、また格花(かくばな)とも言い格式の高い生け花とされ、各流派ごとに花茎や葉の長さ(1cm単位で定めらている)、葉組みの枚数・組み方、生ける順番、角度など厳格な定めがあり、各流派の門下生はその定めにいかに正確に生けるかが求められます。

 

今回はお生花 "風" と言うことで気ままに生けさせて頂きました。

 

さて、ジャーマンアイリスは別名「ひげアイリス」とも言うそうで、どこにひげが生えているかと言うと・・・ 

 

ジャーマンアイリスの花

 

何と花弁。

 

黄色いモジャモジャをひげに見立てたのですね。

 

ちなみに、白く長細いのは雄しべとのこと。

 

さて、そのモジャモジャに鼻を近づけると、とっても甘〜く良い香りがしてうっとりした気分になります。

 

ひげと侮るなかれ、幻惑的な芳香で人を魅了する魅惑のジャーマンアイリスです。

 

 

(追記)一晩で2輪咲きました。

 

(写真)ジャーマンアイリス 備前焼水盤 2026年5月8日、9日撮影