本日29日の予定。
青井はり灸院へ (詳細)
で、京都の東龍ラーメンに嫁と子供&義理妹とで食べた後に
亀岡にある祖父と兄のお墓参りに行ってきました。
この店 嫁の大のお気に入りで、夜中に何度も京都くんだりまで食べに行ったほどです。
妊娠・出産でなかなか行けなかったけど、この日は彼女を喜ばせるためにも行ってまいりました。
当然 私もお気に入りの店です。
3時近くになってきたので、少し急いで亀岡の霊園まで行ってまいりました。
まずは祖父&祖母が眠っているお墓の掃除をしました。
大阪からだと中途半端に遠いのと車保有者が少ないので、なかなか親戚が来れないのが難点。
少し荒れておりましたが、嫁と一緒に草抜きからはじめ、お墓にもお花を添えて綺麗にしました。
御花を添えて、祖父が吸っていたラークを置いてきました。
かなりの読書家の祖父にはいろんな話を聞かされました。
いまでもしっかりおぼえているのは、‘人に好かれる人間になりなさい。’って言われました。
大学時代いけいけで天上天下唯我独尊ってな感じで生意気ざんまいでえらそうな僕は
なんか人に迎合しろってことか なんて少し思ったりもしましたが、
今ではその祖父の言葉を大事にしています。
少しは人に好かれるようになったと思う今の自分がけっこう好きです。
大学時代に‘チャパツ’や‘ロンゲ’っていう言葉がない時から茶髪ロンゲだったために、
祖母には心配をかけていたようです。
‘わかめ食べさせなさい’って母親によく言っていたそうです。
続いて兄の墓に御花を添えて、吸っていたハイライトを置いてきました。
優しい兄だったのを覚えています。
今からちょうど26年前の7月28日にバイクの事故で亡くなったとき、
僕はまだ小学生4年生でした。
夏休みに入ってからの出来事でした。
ちょうど父親に実家の鳥取に知り合い数人と旅行に行っていたとき、
海でたっぷり遊んで宿に帰ってきた時に訃報がはいってきたのだと思います。
父親と母親は、その日の内に事故があった静岡までとんでいきました。
その後、僕と弟は大阪の知り合いの家に預けられ、
僕は何気ない振りをしながらも心穏やかではありませんでした。
子供だったためか事故だとかの状況などは聞かされずまた現実感もありませんでした。
ただその知り合いの家に電話が入り、
おばさんが電話口で泣きじゃくった姿をみて全てを理解できました。
あの伸吾ちゃんが死んじゃったんだと。
あわただしくおつうやと葬式がいとなまれました。
おつうやのときの状況はいまでもわすれません。
当時大学生だった兄はその時すでに婚約者がいました。
綺麗でやさしい方でした。
その婚約者の人が僕の姿をみるなり、私の背丈までに膝を床につき強く僕を抱きしめ、
‘あなたはあんなふうになってはいけないよ! あなたはちゃんとしないといけないよ!’
と強く言い聞かせるようにして号泣してました。 もちろん私も号泣しました。
なんの抗う手段も知らず怒りや悲しさを表現できなかった子供の僕は、
駐車しているバイクをみては つばをはいたり、けっとばしていたりしました。
(そんなことをしてもどうしようもないというのもわかってはいたのですが...)
母親もその後数年は、夏がやってくるとベランダで一人涙していました。
そんな姿を子供の時に見てしまった僕には何の言葉もかけることはできませんでした。
すこし話が湿っぽくなりましたが、
時が解決するというのか、今では僕の中で兄は生きていると思っていますし、
守ってくれていると思ってます。
また自慢の兄です。
子供の時、何かにすねていたりするといつも優しく声をかけては一緒に遊んでくれました。
頭も良かったようです。
小学2年生のときに 中央大学の法学部に進学した兄は両親の自慢でもありました。
(なんせその当時は司法試験合格率は東大よりも上でしたから)
またよくもてたそうです。
高校生の体育祭の時には 彼のためにお弁当を作ってくる女の子が何人もいたために、
その弁当を食べるのに大変だったそうです。
東京に上京してからはちょっとやんちゃに遊んでいたようです。(この辺は少し似たかも)
また高校生のときはラグビーもしており、
あとになって知ったのですが僕と同じポジションでした。
左センター12番です。
僕にとって12番は、例えば銭湯などの靴ロッカーで必ずさがす番号ですし、
こだわりのある番号です。
有名な神戸製鋼の平尾や元木よりも、兄の12番が僕にとっては偉大なのです。
貧乏学生だったにちがいない兄ですが、大阪に戻ってくるときは必ず僕らのために、
当時は高かったであろうおもちゃをよく買ってきてくれました。
母親から聞かされていたことですが、兄は僕ら兄弟(僕と弟)の写真を肌身離さず持っていて、
周囲に自慢していたようです。(俺は親バカならず、兄バカだ と。)
僕は今でも兄からもらった年賀状を今でも大事にとっています。
その年賀状は、子供の僕にも読めるようにひらがなのみで書かれています。
文面には、‘べんきょうなんかしなくていいから、いっぱいあそべよ’ と書かれています。
(残念ながら、そのようになってしまいましたが...)
8年前に僕が離婚する際に父親から知らされたことなのですが、
私と兄は腹違いの兄弟なんです。 父親の連れ子だったようです。
そんな兄を実の子供以上に愛し、また兄からとても慕われていた母親にも感謝しますし、
それな状況を受け入れてくれた祖父&祖母にも感謝しています。
兄が亡くなった年齢をとっくに上回ってしまった僕ですが、
僕にとっては‘あにき’でも‘にいさん’でもなく、やはり‘伸吾ちゃん’なんです。
祖父と祖母とそして‘伸吾ちゃん’に本日はじめて娘を会わすことができました。
ずうずうしくもお願いしてまいりました。
これからはこの子も見守ってくださいねと。
最後に僕が一番気に入っている兄弟三人の写真です。