三國屋物語 第35話
兄の良蔵(りょうぞう)にさえ、このような感情を持ったことは一度もない。良蔵は家業に熱心な人で話し相手といえば番頭や古株の手代が中心だった。一日中口をきかないこともあったが別段寂しいとはおもわなかった。なのにどうしてだろう。篠塚と出会って無性に兄が欲しくなった。良蔵を慕っているのではない、篠塚のような兄を欲しているにすぎない。こんな兄がいたら、どれほど楽しいだろう。そんな途方もない願望が胸中に根をおろしだしたのだ。これまで、手に入れたいものは、いつも手の届くところにあった。唯一の不満があるとすれば退屈という、そんな恵まれすぎた環境にあって、はじめて手の届かないものがあると知った。
「どうした」
「いえ……」
瞬は篠塚の横に膝をそろえると、土方と沖田の訪問についてたずねた。
「今夜、稽古にでないかと誘われた」
「稽古?」
「たんに腕試しというのであれば問題はないが。昨日の今日だ。どうもひっかかる」
「藤木さまが見たという女殺しの一件なのですが」
「なにか、わかったか」
「殺害ではなく自害となっておりました」
篠塚が丸めていた背をのばし脇息を脇におしやった。
「女の素性は」
「六条家に出入している小間物屋のひとり娘、静でございます」
「公家の御用所か。藤木のやつ、とんだ藪蛇(やぶへび)だったな」
「と、いいますと」
「おそらく自害にみせかけようと細工していたところに偶然居合わせてしまったのだろう」
「藤木さまは、女を殺めた男と追ってきた男たちは違うとおっしゃっておりました」
「騒ぎになってはまずい。土方は確かにそういったのだな」
「はい」
「小物屋の娘となれば京都守護職絡みの密命ともおもえない。とすると、隊士の失態を隠匿(いんとく)するための画策(かくさく)といったところか」
「失態といいますと」
「女とみれば見境なく口説く男がいたとする。ふられた腹いせに女を殺めたとなると新撰組にとり汚名以外のなにものでもない。公家に出入している御用商人のひとり娘とくれば尚(なお)のことだ」
新見錦(にいみ にしき)……。
昨日、屯所を訪れた時、芹沢と土方はたしかに新見の名を口にしていた。あの時、またなにか騒動でも起こしたのだろうかと考えたのだが、新見であれば局長という立場上、土方や沖田が隠蔽工作(いんぺいこうさく)に乗りだしたとしても不思議ではない。まだ面識はないが、これまでの淫蕩(いんとう)な所業の数々が新見という男の人柄を如実(にょじつ)に物語っているではないか。
「心当たりでもあるのか」
「局長の新見さまなのですが……」
「新見か。今夜、顔を確かめる。藤木の人相書に似ていれば、十中八九、相手の男とみて間違いはないだろう」
突如として不安におそわれ、瞬はやにわに篠塚の袖をつかんだ。
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