scene8
「着替えてきます」
瞬(しゅん)が更衣室で着替えていると、しばらくして外が賑(にぎ)やかになった。
女子大生の連中だ……。
更衣室は男女隣り合わせで簡易ロッカーで仕切られているだけである。天井部分はさえぎられていないので会話がつつぬけになる。女子大生トリオは隣の女子更衣室に入ってくるなり大きな声で喋(しゃべ)りはじめた。
「やだもう! 篠塚(しのづか)先生、カッコ良すぎ!」
「すっごくセクシー。男の色気って感じ?」
「フェロモン爆発だよね。しかも、ニューヨーク帰り」
どうやら、隣に瞬がいることに気づいていないらしい。瞬は手早く帯を巻いた。
「ね、香水つけてるでしょ」
「そうなの、甘いの。ムギューってしたくなるよね」
瞬は吹きだしそうになり、慌てて笑いを噛み殺した。
「一ヵ月後、帰っちゃうんでしょ? 勝負かけちゃおうかな」
「抜けがけは許さないからね」
「お別れ会、やる?」
「そうだね。……最後にお持ち帰りしてくれないかな」
瞬は、ひそかに溜息をついた。
何を考えてるんだか……。
「なんたって御曹司(おんぞうし)でしょ。ニューヨークまで追っかけていく価値あるかも」
「ゆくゆくは社長かな」
「もちろんよ、だって一人息子だもん」
袴(はかま)をつけていた瞬の手が止まった。
御曹司……。
初めて会った時の篠塚の姿が脳裏(のうり)に浮かんだ。華美な服や装飾品を身に付けているわけではない。格式を重んじる良家にありがちな抑えた服装だった。あれほど乱暴な口をききながら、どこか育ちの良さを感じさせる篠塚に、瞬は少し興味を覚えた。
瞬が着替えを終えてドアをひらくと、息を呑む気配がして会話がぴたりとやんだ。
更衣室をでると壁があった。正確には人の体だ。見上げると、黒い顔の中で二つの目玉がぎょろりと見下ろしてきた。先日、ドアをあけて瞬を突き飛ばした黒人だった。
たしか、マケインって言ったっけ……。
マケインは、「この間は、スミマセン。ケガ、なかったですか」と、屈託のない笑顔をむけてきた。瞬は、圧迫感を覚えながらも、「大丈夫です」と言って、無理に笑ってみせた。
本気で瞬に初段をとらせようと思っているのだろうか。今日も篠塚は瞬以外の門弟の指導をしなかった。この調子で篠塚を独占していると、女子大生の怨嗟(えんさ)の的になってしまいそうだ。
稽古にでている門弟は九人。六時のクラスは人数が少ないので稽古しやすのだが、瞬のようにぎくしゃくとした動作で技をかけていると逆に目立ってしまう。瞬が篠塚に注意されるたびに女子大生の抑えた笑い声が聞こえてきて瞬は面白くなかった。篠塚は瞬の感情を敏感に感じとっているようだ。 「なに怒ってるんだ」と、顔をのぞき込んできた。
「別に」
「技がかからなくて面白くないのか? なんなら受身とってやろうか?」
こいつは……。
どうして、いつもこう、人の感情を逆撫でするようなセリフが思いつくのだろう。瞬は篠塚の腕をとると力任せに投げを打った。篠塚が勢いよく前方へと受身をとる。
かかった……?
が、しかし、受身をとったはずの篠塚に腕を凄まじい勢いで引きこまれ、瞬は続くようにして受身をとらされた。とたんに篠塚が絞めの体勢で瞬の上に覆いかぶさってくる。首の辺りにかすかな痛みを覚え瞬はすぐさま「参った」の合図をした。
「まだまだ!」
「まだまだって……、決まっているのに、ねばるやつなんていないでしょう!」
「かかってるのか?」
「かかってます!」
「………」
篠塚が眉間(みけん)に皺(しわ)をよせた。どうやら疑っているらしい。脇で女子大生たちが騒ぎだした。
「やだ、篠塚先生、私にもその技、教えてよ!」
「そうよ、ずるいじゃない。その子ばっかり!」
その子……?
どうやら、瞬は社会人と思われていないらしい。篠塚が咽喉(のど)の奥で笑いだした。