scene10
一週間が過ぎた。宣言通り、篠塚は根気よく瞬の稽古をつけてくれていた。いくぶん、ぎこちなさはあるが、これまで習った技は一通りできるようになった。そもそも初段クラスの技など、さほど多くはないのだ。職場では佐々木が言っていた、ライバル社であるキエネコーポレーションによる吸収合併という話が現実味をおびてきていた。瞬は将来に不安を感じながらも何もできない自分の立場に苛立ちを覚えていた。
「お見合い?」
瞬は理解できないといった面持ちで聞きかえした。
「親が、うるさくて」
言うと、晴香はグラスを口もとへ運んだ。カンパリソーダの中の氷が涼やかな音を立てた。
「ちょっと待って……」
「以前から話そうと思っていたんだけど、なかなか切りだせなくて」
渋谷のスペイン通りにあるレストランだった。夜の八時をまわったところで、店内は若い客で雑多な賑(にぎ)わいをみせていた。
「僕とのつきあいは単なる……」
瞬は後の言葉を呑み込んだ。これ以上言うと自分がひどく惨(みじ)めな存在になってしまいそうだった。相手に別れ話を切り出された席で結婚を考えていたのは自分だけだったのだと始めて気づいたわけだ。
惨(みじ)めとおりこして滑稽(こっけい)だよな……。
店を出ると二人はその場で別れた。飲みたい気分だった。周囲を見渡すとアベックがやたらと目につく。瞬は大きく肩で溜息(ためいき)つくと、ゆっくりと歩き出した。
渋谷駅に着いたところでポケットの携帯電話が鳴った。見たことのない番号だ。
だれだろう……。
「どうして出てこないんだ」
篠塚の声だった。
「どうして、この番号がわかったんですか」
「入会申込書を見たんだ」
「ああ……」
「今どこなんだ?」
「渋谷ですけど」
「じゃあ、九時のクラスには間に合うな」
「え? ちょっと待って下さい」
「待ってるぞ、もちろん」
不通音が聞こえてきた。瞬はしばらく唖然(あぜん)として携帯電話を見ていたが、そのうち笑いがこみあげてきた。さっきまでの行き所のない陰鬱(いんうつ)な感情が少し薄らいだような気がする。篠塚の強引さに救われた気分だった。
九時のクラスは六時のクラスにくらべて参加人数が多い。参加している門弟のほとんどが社会人で、長く通ってきている年配者が大多数を占めていた。道場に入ると、篠塚が比較的若い二十代後半に見える門人三人を相手に投げ技を打っていた。投げては次、投げては次と、いつからやっていたのか知らないが、これほど疲労困憊(ひろうこんぱい)している篠塚を瞬は始めて見た。篠塚が「まった!」と、声を張り上げた。
「なんだ、もうギブアップか?」
愉快でたまらないといった声だ。瞬も何度か指導を受けたことがある山岸という師範だった。
篠塚がその場でごろりと仰向けになった。次には山岸を軽く睨(にら)み、「三年ぶりだぞ、もっと手加減しろよ」と、息もたえだえに訴えた。
「稽古をしないのは、お前の勝手だ」
「………」
篠塚が瞬に気づいたようだ。荒い呼吸のまま瞬を指さし、つぎには更衣室を指さした。着がえて来いと言いたいのだろう。声を出すことすらできないらしい。瞬は笑いを噛み殺すと素直に従った。