scene11
更衣室に入ると汗のにおいと黴(かび)臭さが鼻についた。奥にある窓を開け放ち、屋根の間から星のない空を仰ぐ。先刻の晴香との会話が脳裏(のうり)をよぎった。
仕事大変ね、ぐらい言ってくれたって……。
そこまで考えて、瞬は小さくかぶりをふった。今さら、愚痴をこぼしている自分に愛想がつく。
ドアが開いて、マケインが入ってきた。瞬は誤魔化すようにしてマケインに笑いかけた。
「どうしたの? 元気ないね」
マケインが慣れた日本語で訊いてくる。瞬は無言で首を横にすると、手早く着替えだした。
シャツを脱いで道着を出していると、背中に人肌を感じて瞬は小さく声をあげた。見ると、マケインが背中をさすっている。
「あの……」
「日本人女性、肌きれいだけど、男性もきれいね」
瞬は複雑な笑みを浮かべると、乱暴に道着を羽織った。
更衣室から出てきて思わず身震いをする。全身に鳥肌がたっていた。
「篠塚先生に教わってるんだって?」
山岸だった。首にタオルをかけ、いかにも寛(くつろ)いだ風である。篠塚はと見ると、先ほど乱取りをしていた他の二人と雑談をしている。六時のクラスは日本人といえば学生が中心なので、同世代の中にいる篠塚は、いつもと違った雰囲気があった。
「はい」
「教えるの上手いだろう」
「ええ、まあ」
「篠塚先生、学生の頃、柔道でインターハイまでいったんだ」
「柔道? もともと柔道をやってたんですか?」
「そう。彼は講道館もかじっているから、実践技教えてくれって頼んだら、しっぽ振って手とり足とり教えてくれるよ」
「……どうして、柔道やめたんですか?」
「二位になったから」
「二位じゃ駄目だったんですか……?」
「周囲は喜んださ。でも、本人がね。ドがつく負けず嫌いなんだ。わかるでしょ?」
言うと、山岸は悪戯(いたずら)っぽい表情で篠塚を見た。篠塚がめざとく見つけたようだ、「おい、山岸」と、声を上げた。
「余計なこと言ってるんじゃないだろうな」
「お前が余計じゃないことを、したことあったっけ?」
「瞬、そいつの話は聞くなよ」
山岸が目を細めた。どうやら、山岸と篠塚は、学生の頃からの知り合いのようだ。
「人身御供(ひとみごくう)になる哀れな青少年に、お説教か?」
人身御供……?
話が見えなかった。いったい篠塚が何をすると言うのだろう。
篠塚は大股に近づいてくると、いきなり瞬の腕を掴み自分のほうへと引き寄せた。
「山岸、このやろう、訳のわからないセリフ言いやがって」
「訳のわからないのはお前だ。小山の後釜(あとがま)か? よせよせ」
瞬は、滝川沙織も同じ名前を口にしていたことを思い出した。
小山って、誰なんだ……。
篠塚が顔に、いくぶん険しい色を浮かべ、「大きなお世話だ」と、呟いた。
「だいたい、将来の夢、なんて、小学生よろしく募集かけてるお前と違って、俺はリアルな思考回路を持っているんでね。金が有り余ってるんだったら、結婚相手見つけて生活築くのが先だろ?」
「おまえ、いつから俺の親になったんだ」
「おやじさん、喜ぶぜ」
「相手あっての話だろうが」
「いるだろう? 待っている人間が」
瞬の腕にかかった篠塚の手に、つと力が加わった気がした。篠塚がとたんに押し黙る。山岸はひとつ咳払いをすると、壁にある時計に視線を移した。
「稽古、始めるか……」
稽古を終えて着替えをすませると、すでに十一時をまわっていた。道場の鍵は篠塚が持っているらしい。一緒に出ようと言われ、瞬は肯(うなず)くでもなく壁を背に膝をかかえた。ぼんやりと畳表を眺めていると、篠塚の足が視界に入ってきた。
「何かあったのか?」
「え?」
「まあいい。とにかく出よう」