scene12
道場を出ると月が頭上たかくにあった。家は歩いて十分ほどだと話すと、篠塚は道場の鍵を預けておいてもいいかと訊いてきた。近くなのだから、何かあった時に鍵の開閉を頼めて便利なのだと篠塚は言った。別段断る理由もないので、瞬は快(こころよ)く引き受けた。すると、篠塚はふたたび、「何かあったのか?」と、瞬に訊ねてきた。
「………」
仕事のこともあったが、それ以上に、晴香との別れは瞬の気を滅入らせた。一番そばにいて欲しい時に貴女はいない……。そんな、安っぽい恋愛小説のようなセリフが頭に浮かんだ。
道場の玄関のほのかな灯りが、篠塚の彫りの深い顔を浮かび上がらせている。瞬は、「女にふられただけです」と、言葉少なに答えた。
「飲みにいくか」
「え?」
「つきあうぞ」
「今から?」
「もう遅いか」
「親が結構うるさくて……」
「明日……。といっても、結局、この時間になるが……」
「前もって言っておけば、大丈夫です」
「箱入り息子か。ふたれた原因は、それじゃないのか」
瞬は力なく微苦笑すると、「それに」と言葉を続けた。
「仕事も、いつ失業するか、わからない状態で」
「……そうか、大変だな」
なぜ、こんなことまで篠塚に話してしまったのだろう。今年大学を卒業し、入社したばかりだった。新しい環境で親しい友人もいない。大学時代の友人も、それぞれが新しい生活を強いられ多忙な日々を送っている。どこか、孤立に似た閉鎖的日常において、篠塚の存在は別世界への大きな扉のように思えた。少なくとも篠塚に会っている時は、瞬は何もかも忘れて武道に打ち込むことができた。武道が好きなのだとは思わなかった。ただ、打ち込むものが欲しかったに過ぎない。
あくる日、瞬が会社から帰宅すると、篠塚から連絡があった。どうしても抜けられない会議があると言う。
「最終クラスが終る頃には間に合わせるつもりだが、少し遅れるかも知れないんだ。悪いが、その時は待っていてくれるか」
明日は土曜日だ。会社は休みなので時間を気にすることもない。瞬は、「わかりました」と、返事をして電話を切った。
どこかで季節外れの風鈴が鳴っている。そよとした五月の風がカーテンを揺らした。街が黄昏(たそがれ)はじめるこの時間は、このところ毎日道場に通っている。不思議なことに、昨夜ほど晴香とのことが気にならない。日を追うごとに失恋の痛手は増していくものだと考えていたのだが……。
最終クラスの稽古に出ると、山岸が気のおけない笑顔を向けてきた。
「あれ、今日は相棒いないの?」
「ええ。……あの、山岸先生」
「なに?」
「小山さんって、門弟の誰かですか?」
山岸は一瞬真面目な顔をしたが、すぐに口をほころばせた。
「小山は大学の同期だよ。俺も篠塚先生も同じ大学でね。そうそう、滝川先生も。彼女は、俺たちより一期下だけどね」
大学のつながりだったのか……。
山岸が、「どうして?」と、言った。
「昨日、僕が小山さんの後釜って……」
「ああ、あれね。気にしないでいいよ。ほんのジョークだから」
「三年前に何かあったんですか?」
山岸がさっと笑顔を引っ込めた。
「篠塚に聞いたのか?」
「篠塚先生と滝川先生が話しをしていて」
「どんな事?」
「道場が関係しているとか」
「うん」
「していないとか……」
「……つまり、あんまり聞いてない」
瞬が肯くと、釣られるようにして山岸も大きく首を縦にした。
「じゃ、忘れて」
「はい?」
「ぜんぶ忘れて」
「………」
ある意味、この山岸のほうが篠塚より性質(たち)が悪いと言えた。一見しても百見しても、山岸は善良で育ちが良さそうに見える男だったからだ。
稽古が終っても篠塚は現れなかった。
瞬は、更衣室が空くのを待って着替えることにした。山岸が更衣室から出てきて、「帰らないの?」と言ってきた。
「鍵を閉めるように言われて」
「そう。じゃあ、お先に」
「お疲れ様でした」
しんと静まり返った道場は、先刻までの熱気がまたたくまに消え、いくぶん肌寒さを覚えた。
瞬は、そろりと腰を上げると更衣室へと向かった。ドアを開けて直後、瞬はあやうく声を上げそうになった。窓を背に、マケインが立っていたのだ。