活字遊戯 ~BL/黄昏シリーズ~ -1014ページ目

scene14

 どのくらい、そうしていただろう。しばらくして、瞬はかたく瞑(つぶ)っていた目をうっすらと開いた。
 酸素スプレーが切れたようだ。風がやむと同時に甘いムスクの香りに包まれた。篠塚の速い鼓動(こどう)が頬のあたりに伝わってくる。見上げると、心配そうな篠塚の顔が滲(にじ)んでみえた。どうやら自分は泣いているらしい。瞬は手の甲で涙を拭うと、かすかに笑ってみせた。
「笑わなくていい」
「みっともなくて……」
「……待たせてすまなかった」
 言いながら、篠塚が瞬のはだけた道着と袴を手早くなおした。呼吸がようやく整ったようだ。瞬は、「もう平気ですから」と言って、ぎこちなく上体を起こした。道着の袖(そで)で額の汗を拭いながら周囲をゆっくりと見渡す。マケインの姿はどこにも無かった。
「頭痛はしないか?」
「はい」
「どこか痛いところは無いか?」
 全身を軽く動かしてみる。引き倒されたとき軽く腰を打ったようだが、それ以外はどこにも痛みを感じなかった。瞬が、「はい」と答えると、篠塚が眉を寄せた。
「訴えることもできるが」
「……未遂ですから」
 篠塚は掛ける言葉をさがしているのか、さだまらない視線で歎息した。一見してオーダーメイドとわかるダークグレーのスーツを着こなし、髪もきれいに整えられている。いつもの篠塚とは違った。瞬が心なしか篠塚との距離を感じて肩を落とすと、どう解釈したのか、「とにかく、ここを出よう」と、篠塚が言った。



 着替えをすませて道場をでると、路肩に一台の高級車が停めてあった。
 ハイブリッドカーだ……。
 瞬は薄手のシャツにコットンズボンをはいていた。しごく不釣合いな気がして佇立(ちょりつ)していると、篠塚がまわり込んできて助手席のドアをあけた。
 助手席に乗りこみながら、この車の値段を頭の中に弾(はじ)きだす。おそらく一千万は下らない……。先日、更衣室で聞いた女子大生トリオの会話がよみがえってきた。
 ニューヨークまで追っかけて行く価値あるかも。
 確かに中途半端な金持ちではなさそうだ。
 僕とは住む世界がちがう……。
 車が滑らかに走りだした。瞬は篠塚の横顔を盗み見ると、皮製のシートに深々と背中をあずけた。



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