活字遊戯 ~BL/黄昏シリーズ~ -1012ページ目

scene16

 シャワーを浴びると体が軽くなった気がした。篠塚はすでに部屋着に着がえており、窓際のソファーにもたれて分厚い書類をめくっていた。壁に飾られた華美な装飾の額に目を奪われた。古いジャズのLPレコードだった。黒人プレイヤーが苦しげな表情でテナーサックスを吹いている。その顔が、先刻みたマケインの顔と重なり、瞬の胸が激しく動悸(どうき)を打った。
 突然、誰かの手がのびてきて額がはずされた。瞬が、はっとしたように眸をひらく。篠塚だった。
「篠塚さん、あの……」
 篠塚が、「飲もう」と、瞬の背を押しソファーへとつれていく。篠塚がひどく神経質になっているのがわかる。瞬はソファーに腰掛けると、つとめて明るい表情をつくった。
 篠塚の話は面白かった。始めてニューヨークに行った時の苦労話や、合気道の失敗談など、篠塚は笑いをまじえながら瞬にきかせてくれた。瞬はあまり酒には強くなかったが、篠塚の話をきいているうちに杯がすすんだ。飲みたかったせいもあるが、それ以上に、篠塚を独占しているこの空間が瞬には心地よかった。いつまでも、こうしていたかった。時間が止まればいい。瞬は心からそう思った。



 漆黒(しっこく)の中に黄色い双眸があった。顔を背(そむ)けようとした瞬の顔を巨大な黒い手が覆ってきた。次には手首をつかまれ引きよせられる。叫びたいのに声がでない。巨大な双眸の下にある紅い口が音をたてて裂けた。全身が正体のわからない粘着質の物体に侵食されていく。もがけばもがくほど、それは強固に体にまとわりつてきた。そのうち、巨大な口が瞬の体を呑みこみはじめた。
「や……」
「瞬、しっかりしろ」
「助けて……篠……」
「大丈夫だ」
 息苦しさに、瞬はかすかに目をひらいた。瞼(まぶた)が重たい。自分は誰かに抱きしめられているようだ。夢から醒(さ)めるときの感覚に似て、はるか遠くのほうで声がひびく。篠塚の声が、「もう、大丈夫だ」と、ふたたび言った。自分を抱きしめているのは篠塚だろうか……。
 篠塚がいれば大丈夫だ。意味もなくそう思った。瞬はふわりと篠塚の背中に手をまわすと、「大丈夫ですから」と、囁いた。笑ったつもりだったが頬を熱いものが伝った。自分は泣いているのかも知れない。だが恐怖はなかった。瞬が同じ言葉をくりかえそうと口をひらきかけたとき、篠塚の唇がそれをさえぎった。
 夢……?
 浮遊感をともなう夢だった。濃厚なムスクの香りと触れあう唇のなめらかさ……。篠塚の力強い腕だけが瞬をつなぎとめていた。離れたら最後、二度と夢幻の境から戻ってこられないような気がして、瞬は篠塚にすがりつくようにして温もりをたぐりよせた。
 大きな安堵感につつまれた。だが、その安堵感は、いくばくかの切なさを含んでいて、瞬の頬をまた涙がつたった。
 これは、夢だ……。
 瞬はふたたび目を閉じると、深い眠りへと堕ちていった。



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